#6〜#7 細野晴臣 of SPECIAL INTERVIEW

SPECIAL INTERVIEW

細野晴臣

ソロとして、あるいは"はっぴいえんど" "ティン・パン・アレー" "YMO"などの様々なバンド活動や幾多のコラボレーションを通じて、常にJ-POPSシーンをリードし続けてきた細野晴臣。30年にわたるその活動の集大成ともいうべき初のボックス・セット『HOSONO BOX 1969-2000』がリリースされたのを記念して、今回待望のインタビューが実現!『Groovin'』ならではの視点による細野晴臣インタビュー、興味深いお話満載のコンプリート版でお送りいたします。

(初出『Groovin'』2000年3月25日号、2000年4月25号)

PART 1

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ーー:今回遂に待望の『HOSONO BOX 1969-2000』がリリースされますが、率直にこれがリリースされることになった経緯をお聞かせ下さい。
細野:最初のきっかけは、『トロピカル・ダンディ』の頃、76年(5月8日)に「中華街ライヴ」というのをやったんですけど、その2トラック6mmテープが出てきたんですよ。オープンリールの。元パイドパイパー・ハウスの長門芳郎君が持ってきたんです。
ーー:それは長門さんがご自分で持っておられたんですか?
細野:自分で持ってた、と言ってましたね。またその頃、他にもあちこちから色々なテープが出てきて、目黒区民センターのカセットとか、ライヴをカセットで録ったものがあちこちから出てきて。その出所の1つは、すみやの関係の人々が(笑)。
ーー:我々もちょっとだけ、関係してますが(笑)。そもそも2年前に、たまたま(鈴木)惣一朗さんと『ベスト盤でOK!』という本でビーチ・ボーイズについての対談をさせて頂いて、その時に色々とお話ししている中で細野さんの話題になりまして。ちょうどアメリカでブライアン・ウィルソンがライヴを行った時期に、それを細野さんがご覧になられたということで...。
細野:ああ、その時期ですか。
ーー:それで色々お話ししているうちに、「実はこういうテープがあるんですけど」ということで惣一朗さんにはっぴいえんどの未発表曲についてのお話しをしたところ、是非聴きたいということで、後でカセットでお聴かせしたのがこのボックスにも収録された「手紙(風を集めて)」だった訳です。
細野:そういうことだったんですね。で、それまでにもあったんですが、ちょうどその時期にあちこちからそういった音源が偶然集まってきて、一時期に同時にそういう事が起こるので、ちょっと考え出したんです。また周りのスタッフからも、そろそろこの辺でまとめたものを出してみるのもいいんじゃないか、という意見もあって。そして鈴木(惣一朗)君が選曲をするという熱意を持っていたので、それを信頼してボックスの作業に取りかかった訳です。
ーー:細野さんは(レコード・デビューした)69年から数えて今年で31年目ということで、当然膨大な曲数がありますよね。
細野:だから自分では、絶対選曲できないですよ。ベスト盤なんて、絶対に出来ないですよ、自分では。自分ではベストなんて言ったら3曲ぐらいになっちゃうんで(笑)。
ーー:ちなみにその3曲は、何ですか?
細野:いやー、そう突っ込まれるとは(笑)。考えておきます(笑)。
ーー:それだけ膨大な曲数があるので、ボックスに入れる曲を選ばれる際に惣一朗さんもすごく大変だったと思うんですけど...。
細野:大変だったと思います。
ーー:細野さんが監修されて選曲がなされていく中で、何か面白い発見や裏話などありましたら、お教え頂きたいんですけれども。
細野:やはり先程から話に出ている、「風を集めて」のボツ・テイクの話ですね。これはボツにした立派な理由があって...出来が悪いからだったんです。
ーー:でもマスター・テープの最終段階まで、確かトラック・ダウンまで入っていた曲ですよね。
細野:そうですね。でも何かやった後でフィットしなくて。歌もうまく歌えていないし。で、葬ってしまったんですね。でもそういうものが今甦ってくると、やっぱり戸惑いますね。そういうものは本当は入れたくない訳ですよ。死んでからならいいですが。だからもう、死んだものとして扱われている感じですね(笑)。
ーー:確かはっぴいえんどの頃にも、何曲かアウト・テイクがありましたよね。松本(隆)さんに先日インタビューしたときに、そういう事をお聞きしましたが。松本さんのボックス『風街図鑑』に、ライヴの1曲(「ちぎれ雲」)が収録されて話題になりましたが、でもあまり表には出てきた曲は無いようですね。そういえば「めざめ」という曲のテープを、松本さんが探しておられて...。
細野:「めざめ」ね!それ、覚えてますね(笑)。
ーー:確かバーンズの頃の曲ですよね。
細野:そうです、バーンズの時。バッファロー・スプリングフィールドみたいな曲なんですけど、まあ習作というやつですね。練習作みたいなものです。
ーー:松本さんは、思い出深い曲みたいで...。
細野:詩に関しては、そうでしょうね。
ーー:誰か持っていないかということで、探しておられたみたいです。
細野:そう言えば、どこ行っちゃったんでしょうね(笑)?僕はその後、聴いたことないですね。
ーー:68年当時のレコーディングは、一発録りみたいな感じだったんですか?
細野:オケは一発で。でも「めざめ」って、レコーディングしたかな?ライヴかも知れないですね。
ーー:松本さんによれば「めざめ」は、すごくいい曲だったと。
細野:そうですか。でもその「めざめ」に関しては、今回のボックスでは話題にのぼらなかったですね、残念ながら。誰も知らないんでしょうけど。誰も聴いたことないですからね(笑)。僕自身は、そういう一回終わったことに関しては、全くのほったらかし状態だったんですね。だから誰かがやらない限りは、こういうまとまったものは出ないと思いますね。自らベスト盤を作ろうという気は、全く無かったんですよ。まとまる訳がない、と思っていたので(笑)。
ーー:でもいざこういった形でまとまったものが出来てくると、いかがですか?
細野:ボックスの中で後書きみたいな事で書いたんですが、自分でマスタリングの時に全部聴いて、疲れましたね。CD4枚、それにブックレットも大変だったですし。
ーー:このブックレットには、インタビューや資料などが盛りだくさんですよね。この作業も大変ですよね。
細野:大変でしたね。でも本来は、こうやって聴くものじゃないですね(笑)。やはりアルバムごとに作ってあって...。例えばアメリカに(フランク・)シナトラとか偉大なシンガーがいますよね。彼のベスト盤とかっていっぱい出ている訳ですよ、大体20曲入りとかの。全部網羅したボックスも出ていたりしますが、これって一度に一気に聴けるものじゃないですよね。大体3〜4曲聴いたら休みますよ、疲れちゃいますから。だから僕のボックスを一度に全部聴く人はいないと思うんですけど、逆にあまり聴かれたくないですね(笑)。改めて暑苦しい声だとか、再確認されちゃいそうでね。
ーー:そんなことはないですよ。でもこれだけの濃い内容のボックスは、そうはないですよね。個人的な話ですが、僕は以前テイチク・レコードにおりまして、というのも高校生の頃ある音楽雑誌で細野さんがMONADOとNON STANDARDというレーベルをテイチクで作られたという記事を読みまして、それで「これだ!」と思って後にテイチク受けて入ったんですが、僕が入社した頃、すでに細野さんはいらっしゃらなかったという(笑)。
細野:そうだったんだ。それは知らなかった(笑)。
ーー:で話を戻しまして今回のボックスですが、未発表曲がかなり収録されていますよね。この辺のお話をお伺いしたいのですが。で、いきなりDISC 1の1曲目に、62年録音の「ブルー・モンク」が入ってますよね。これは中学生の頃のピアノ演奏の音源ですよね?
細野:この頃同級生を3〜4人集めて、ブレッツメンというインスト・バンドを組んで練習していたんですね。元々この白金の家のリビングにステレオがあって、そのステレオ・アンプに友達が買ったエレキ(・ギター)を差し込んで鳴らして、ドラムはお煎餅の大きな缶にボール紙を張って作って、キック・ドラムは床を叩くということで、練習していたんです。何でそれが始まったかというと、父親がオープン・リールの民生機のテレコを買ったんです。僕のために買ったとは思えないんですけど、使っていたのは僕だけだったんです。それで録るのが面白くて、それで練習を録っていたんです。そのたまたま残っていたものの1つが、この「ブルー・モンク」なんです。
ーー:これが最初の録音ですか?
細野:そうですね、この頃録音したものが、他にもいっぱいありますけど。「サーフィンUSA」を歌ったものや(笑)。
ーー:それ、昔大滝(詠一)さんが聴いたことあるって、ラジオで話されてましたよ。
細野:そうなんです。だから、まだボックスに入れてないものが沢山ありますね。
ーー:バンドを組まれたのは、そのブレッツメンが最初だったんですか?
細野:そうですね。中学時代に。
ーー:その時の担当楽器は、ピアノだったんですか?
細野:いや、そんな明確なものじゃなくて。ドラムやったり、エレキやったり。ピアノは1人でやってましたね。インスト・バンドというと当時は、エレキ以外の楽器が入ってくると格好悪かったんで。サックスが入ってくるとおじさんのロックみたいな感じがあって(笑)、なるべくエレキだけでやってましたね。で、リード・ギターをみんな弾きたがるんで、でも当時のレベルでは割とリード・ギターは簡単なので、それで僕はドラムやったりベース弾いたりしてましたね。
ーー:でもそこからその後の様々なバンドでの活動が、始まった訳ですよね。で、たまたま細野さんのバンド系図を見ていたときに気が付いたんですが、細野さんがベーシストとして組んだドラマーって、68年から78年までの10年間つまりバーンズからティン・パン・アレーまでの間にたった2人しかいないんですね。松本隆さんと林立夫さんの2人だけ。これだけの数のバンドを組んでいながら、それがすごく意外な発見だったんですけど。
細野:なるほどね、確かにそうですね。その後のYMOの(高橋)幸宏入れても、3人だ。また今、林立夫とやってるから、増えない訳ですよね(笑)。
ーー:ということは、ドラムとベースというリズム隊はカチッと決まっていて、そこに他の楽器やヴォーカルが新たに乗ることで新しいサウンドが生まれてきた、とも言える訳ですよね。
細野:そうですね、確かに。去年松本とやって、彼がちゃんと叩いたんで感動しました。
ーー:松本さん、ご自分のドラム・セットを新たに買われたそうですね。
細野:そうなんですよ。買っちゃったぐらいだから、これは真剣だなと思いながらあたたかい目でみんなで見守っていましたよ。その後林立夫とまたやりだしたんですが、ここ20年ぐらい全く会ってなかったんですが、そのブランクは関係なくやれてますね。やはり息が合うんですね。
ーー:それはやはり長年の...。
細野:そうですね、ドラムとベースはそういうものですね。
ーー:で先程のバンドのお話に戻りますが、その後ドクターズというバンドを結成されますよね。これは?
細野:ドクターズは大学の同窓生達がやりだしたバンドで、それに参加してくれと要請されて手伝っていたんです。ビートルズのコピー・バンドで。それまで僕は、ビートルズは全然コピーしたことがなかったんで、それで知ったんですね。
ーー:この前にもいくつか組んでいたバンドはあるんですか?
細野:前とか後ろではなくて、並行してありましたね。掛け持ち状態で。その時代は確か1〜2年の間に3〜4バンドやっていたような。その中にバーンズというのがあったし。それから話はちょっと前に戻りますが、高校生の頃にフォーク・バンドでオックス・ドライヴァーズというのに参加したんですけど、そのメンバー達と一緒にまたフォーク・ロックをやったりとか、並行してやっていました。それ今回1曲(ボックスに)「グリーン・パック・ダラー」っていうのが入ってますけど。
ーー:でバーンズのお話へと移りますが、松本さんと一緒にバンド活動をなされたのはこの時が初めてですか?
細野:そうですね。
ーー:どういう経緯で、巡り逢ったんですか?
細野:ドクターズをやっている頃に、「ピープ」というサークルでコンサートを主宰していたので、そこに若者達がいっぱい来ていて、鈴木茂とか林立夫とか、小原礼とか浜口茂外也とかその頃に知り合ったんです。当時松本隆のバーンズは慶応のグループだったし僕らとは全く関係のないバンドだったんですが、どこかでそういうコンサートの噂を聞いたのか、突然電話がかかってきて、会いたいということで呼び出されたんです。で、会いに行ったらベースのオーディションをするからということで...。
ーー:ということは、何人かベーシストの候補がいたんですかね?
細野:そうなんですかね。で、ジミ・ヘンドリックスか何かのコピーをやらされて、セッションしてOKが出たんで、メンバーになった訳です。
ーー:当時バーンズでは、どんな曲を演奏されてました?
細野:結構ソウル・ミュージックが多かったですね。アトランティック系のものもやってましたし、あとサイケデリックなものをやったり、バッファロー(・スプリングフィールド)も無理矢理やってましたね。
ーー:バッファローはもうこの時期にカヴァーしていたんですね。68年ですから、同時期ですよね。国内じゃ最高に早い時期にカヴァーしていたバンドですよね。
細野:フォロワーでしたね。モビー・グレープは難しかったのでやってなかった気がする。バーンズでは出来なかった。
ーー:当時確かディスコのハコバンをやっていましたよね。パニックに出ていたんでしたっけ?
細野:パニックは、エイプリル・フールの時。バーンズの時は、青山3丁目の地下にあったコッチというクラブに出てました。それに出るために(バーンズに)入ったようなものです。アルバイトのつもりで。
ーー:先日野上眞宏さんの写真展を拝見したときに、会場に野上さんが一番最初に撮影された細野さんと松本さんの写真というのが飾ってあったんですが、まさにその当時ですよね。
細野:そうです。割と髪が短い頃の。
ーー:銀座のみゆき座の前で写されたものでしたよね。その時、他に銀座4丁目の横断歩道を渡っている写真とか、未発表のものも見せて頂きました。
細野:そんなのあったんですか?見せてくれなかったな(笑)。
ーー:そしてほぼ同時期に、スージー・クリーム・チーズというバンドに参加されていますよね。
細野:ほぼ同時期ですね。
ーー:この時はドラムが林立夫さんで、ギターが鈴木茂さんというメンバーが既に揃っていますが、このメンバーはどうやって集められたんですか?
細野:ドクターズが主宰していた「ピープ」というコンサートに集まってきたバンドの中から、ピック・アップしたんです。当時スーパー・セッションというのが流行っていて、いくつものバンドの中から一番巧い人をピック・アップしてバンドを組めば、それがスーパー・バンドになるだろうという考えで。それを言い出したのは、僕の友達の柳田ヒロのお兄さんで柳田優という人なんですけど、ドクターズのメンバーだった彼の言い出しでピック・アップをして、組んだ訳ですね。
ーー:茂さんは当時、まだ高校生ぐらいですか?
細野:彼はまだ高校2〜3年ぐらいだったですね。茂はCIAというベンチャーズのコピー・バンドをやっていて、ベンチャーズのギターみたいなことをやっていたんですけど、段々ジミヘンみたいなものを弾き出して。
ーー:では茂さんにとっても、ちょうど変わり目の時期だったんですね。
細野:そうですね。
ーー:今回のボックスにも、スージー・クリーム・チーズの「ミスター・ソウル」が入ってますよね。やはりこのバンドでもバッファローとか、その辺のサウンドを目指していたんですか?
細野:そうですね、バッファローは必ずやってましたね。まあいい加減なコピーでしたけどね。キッチリやっている訳じゃないんです。
ーー:茂さんや林さんとバンドを一緒に組まれたのは、この時が初めてですよね。
細野:そうですね。
ーー:この時に既に、細野さんと茂さんという後にはっぴいえんどを組む2人が一緒のバンドにいて、さらにその後キャラメル・ママを組む細野さん、茂さんそして林さんが同じバンドにいたというすごいバンドだった訳ですね、スージー・クリーム・チーズは。
細野:そうですね、出会いというのは最初の時点で何か既に出来上がっているんだな、っていう感じがしますよね。
ーー:その後ドライアイス・センセーションというバンドも組まれますが。
細野:これは基本的に、メンバーが抜けて名前が変わっただけ。
すみや鷲尾:昔インタビューでオノ・ヨーコさんが「偶然というものはなくて、世の中は必然で成り立っている。だから出会いも必然で出会っている」というような事をおっしゃっていましたが、まさにそういうこととリンクするような感じがしました、今の言葉をお聞きして。
細野:長い間生きてくると、みんなそう思い出すんでしょうね。当時は全くそんなことは考えていませんでした。

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