#2 松本 隆 PART 2 of SPECIAL INTERVIEW

SPECIAL INTERVIEW

松本 隆

今年作詞家としての活動30周年を迎える松本隆。エイプリル・フールからはっぴいえんど時代にはバンドのキーとなるドラムス&作詞を担当、また作詞家に転じてからはアイドルからロック/ニュー・ミュージック系アーティストにまで幅広く作品を提供し、日本を代表する作詞家としてJ-POPSシーンを支え続けてきました。また30周年を迎えるにあたって12/1には松本隆WORKSの集大成でもあるボックス・セット『風街図鑑』のリリースや、11/9、10には松本隆トリビュート・ライヴが行われるなど、節目の年に相応しいニュースも目白押しです。そこで今回、特別にインタビューを行いました。なお、すみやのフリー・ペーパー『Groovin'』#2(11/25号)では誌面スペースの関係で全文掲載ができませんでしたので、このホーム・ページでコンプリート版を公開させて頂くことになりました。興味深い発言もありますので、最後までごゆっくりお楽しみ下さい。

(初出『Groovin'』1999年11月25日号)

PART 2

松本隆-A#2.jpgーー:で、その辺も含めて今度は、松本さんの今までのキャリアを振り返って頂きたいんですが。まずエイプリル・フール時代から始めたいんですが。今回のボックスには「暗い日曜日」が収録されてますが。
松本:あれは出来云々ではなくて、処女作なんです、ぼくの詞の。だから記念碑的な意味も込めて入れた。
ーー:エイプリル・フールのアルバムを作られたときのレコーディングの状況は、どんなものだったんですか?69年ですよね。
松本:多分2チャンネル同時録音だと思うんですが...同録です。結構ライヴはうまいバンドでしたね。
ーー:ライヴの本数はかなり多かったんですか、当時。
松本:そうですね。ライヴは新宿のパニックにハコで入ってたから、69年、大学2年の時かな。
ーー:当時のライヴでのレパートリーは?
松本:ほとんどドアーズ。あとスリー・ドッグ・ナイトだとか、初期のツェッペリンとか。スリー・ドッグ・ナイトは巧かったな。すごい演奏能力は高かったよ。
ーー:細野さんって当時から、ああいう感じだったんですか?
松本:当時から老けてましたね(笑)。ぼくが18だから細野さん20歳ぐらいでしょ。おじいさんみたいだった(笑)。何か悟りきっててね。
ーー:当時の音源は、無いんですか?ドアーズとかのカヴァーしてる。
松本:ドアーズはない。本当はあったんだけど、野上(眞宏)さんっていう写真家がいるでしょ、あの人がテープ回してたらしいんだけど、そのテープを細野さんに貸したら細野さんがなくした(笑)という。
ーー:もったいない!当時はもう、オリジナルの作品っていうのは、ライヴで演奏されたりしてたんですか?
松本:たまにね。
ーー:それはエイプリル・フールのアルバムに入っている曲ですか?
松本:そう。ヴァニラ・ファッジみたいな、1曲目の「Tomorrow's Child」とか。
ーー:エイプリル・フールは69年にアルバムを出して、すぐ解散してしまうんですよね。
松本:そう。今キティの社長やってる高久(光雄)さんがこのディレクターだったんです。で4月に録音したからエイプリル・フールっていう名前になって。でアルバムは9月1日が発売日で、その間にメンバーの仲が悪くなって(笑)。(柳田)ヒロと細野さんが合わなくて。で解散してはっぴいえんどへ行くんですけど。
ーー:でも今考えると、すごいメンバーですよね。エイプリル・フールも。でレコーディングされた場所が、確かテイチクですよね。
松本:テイチクで同録。
ーー:昔虎ノ門にあった、テイチク会館のスタジオですよね。
松本:とてつもない機材だったよ。
ーー:で話を戻しますが、アルバムが出ると同時に解散状態で、そこから松本さんと細野さん、小坂忠さんは一緒にはっぴいえんどへといく訳ですが...。(編集部註:小坂忠さんはミュージカル『ヘアー』に行き、結果的にはっぴいえんどには不参加。)それで最初はバンド名がはっぴいえんどじゃなくって、バレンタイン・ブルーでしたよね。これを考えられたのは?
松本:バンド名は大抵、細野さん。常に大学ノートに4ページ分ぐらいぎっしりバンド名ばかり書いてあって。「それどうするの?」って言って(笑)。
ーー:じゃあ、エイプリル・フールも細野さんの発案ですか?
松本:ぼくと2人で車に乗ってて、考えたんだけど。どっちが言い出したか覚えてないけどね。細野さんというふうに、しときましょうか(笑)。
ーー:で、はっぴいえんどへと移っていく訳ですが、最初その3人でスタートして、そして小坂忠さんが抜け、そこに入ってきたのが大滝さんと鈴木茂さんですよね。
松本:まず大滝さんで、次に茂で。茂はかわいそうに、大学行きたいのに行く必要ないとか細野さんに言われて止めさせて、はっぴいえんどに引きずり込んで。でぼくは、細野さんの卒論書いて細野さんを卒業させてあげて、自分が卒業出来なかったという(大笑)。結局一番得したのは、細野さん(大笑)。
ーー:バレンタイン・ブルーからはっぴいえんどへバンド名が変わった経緯っていうのは、何かあったんですか?
松本:レコーディング始まった時まではバレンタイン・ブルーで、終了間際に僕が「はっぴいえんど」っていう詞を書いたのね。で、それを細野さんと録音してて、そのレコーディングの帰り道か何かに、細野さんが「はっぴいえんどっていう名前気に入ったから、それをバンド・ネームにしようか」って言われて。やっぱり細野さんが言い出した。で、いいんじゃないってことになって。バレンタイン・ブルーって、何かちょっとセンチメンタルな感じがしてて...。大滝さんは気に入ってたみたいだけど。結構みんな、こだわってたんですよ。
ーー:はっぴいえんど時代には、ライヴも相当な本数をこなされてますよね。レコーディングの合間を縫って。
松本:とにかく当時は演奏するの楽しかったからね。仕事があれば、どこでも飛んでくみたいな感じで。
ーー:僕も当時のライヴについて調べたことあるんですが、すごい本数ですよね。
松本:確か長崎の方へ行って、ライトバンの荷台か何かで走りながら寝て、福岡で演奏してみたいな。あと札幌日帰りとか。当時、ホテル代がなかったんだ。主催者側が出さないから。
ーー:車移動の間に寝るとか。
松本:汽車移動なんかもあまりないしね、悲惨な時代だったよ。
ーー:その長崎の時に確か長門芳郎さんがドライバーで送り迎えをした、っていう話を長門さんから聞いたのか本で読んだのかしたことありますが。
松本:あれ、長門さんだったの?
ーー:長門さんは当時、長崎で地元の若い人と一緒にイベントの主宰やミニコミの制作をされていて、それではっぴいえんどを呼ぼうってことになったらしいですけど。で、長崎から福岡への帰り道に長門さんが車を運転してメンバーを送っていったとか。
松本:じゃあ、その時だね。荷台にごろ寝(笑)。
ーー:で、松本さんがそのミニコミを真剣に読まれていたのが嬉しかった、とかいう話を聞いたことがあります。当時のレコーディングは、どんな感じでした?
松本:『ゆでめん』はね、2チャンネルで録ってそれを4チャンネルのステレオに落として、で2トラック空くでしょ。そこに歌とギターとか入れて、最後にその4チャンネルを2チャンネルにリミックスしながら、パーカッションとか入れて。
ーー:そこでまた被せてるんですか。
松本:そう、だから2→4→2。『風街ろまん』になると8チャンネルだけど。で、3枚目のアメリカ録音は、16チャンネルかな。だからチャンネルが倍々になっていって。
ーー:ちょうどエイプリル・フールの頃から、技術的な革新が進んでいって。
松本:(チャンネルが)倍々になっていって、録音は飛躍的な進歩を遂げる時代にちょうどやってたと。そんなに音が良くなったとは、あまり思わないけど。あんまりトラック数増えてもね、今度人間の脳が追いつかないと思う。120何チャンネルとか言われてもね(笑)。僕なんか100曲並べるだけで、精一杯だよ。だからエンジニアの人がそんな沢山のチャンネルを全て頭にインプットしてるとは、到底思えない(笑)。だから混乱するだけなんじゃないかな。
ーー:例えば『ゆでめん』は、曲先が多いんですか?それとも詞先?
松本:はっぴいえんどはほとんど、詞先。ほぼ全部っていってもいいくらい。で、曲先が出てくるのは、大滝さんのソロ(アルバム『大瀧詠一』および「恋の汽車ポッポ」等のシングル)から。
ーー:例えば、この曲は細野さん、この曲は大滝さんというような作曲者の割り振りっていうのは、どのようにされてたんですか?
松本:ぼくが勝手に決めてた。
ーー:じゃあ、これは大滝さん向きだろう、これは細野さん向きだ、っていう風にですか?
松本:そう、詞を作った時にね。だからその頃から、作詞家なんだよね。それで曲付けられないと、交換したりして。「暗闇坂むささび変化」なんかね、2、3回交換したような気がする。あれもね、何種類か違うメロディがあるはず。
ーー:では当時から作詞家としての仕事が、ディレクションも含めてあったんですね。
松本:あったみたいだね。
ーー:そう考えると、はっぴいえんどってすごいバンドですよね。茂さんも含めて4人がそれぞれ...。
松本:バランスとれてるよね。あれだけフィフティ・フィフティなバンドって、滅多にないよね。4人がバランスとれてて力持ってるというのは、ビートルズぐらいしか知らない。大抵ワンマンになるじゃないですか、バンドはね。1人が力持ってて残りは付録みたいなバンドが多いんだけど。だから上手に役割分担が出来てましたね。
ーー:で、みなさんそれぞれの色分けというか、作風や歌い方も含めて違った個性の強い方が多いですから、だから結構当時は、細野派の人とか、大滝派の人とかファンの間では別れたんじゃないかと思うんですが。
すみや鷲尾:僕は初めて聴いたとき、ひっくり返るほどの驚きがあって。日本語だったし。僕は横浜育ちなんですが、高校のクラスで大体、洋楽聴いている人間っていうのがまだあまりいなくて、29年生まれなんですが、で日本のものでもフラワーズとか内田裕也一派とかカヴァーが中心のものを聴いている人が多くて、日本語で歌ってロックしてるっていうのは、無かったですよね。だからはじめて(はっぴいえんどを)聴いたとき、すごいビックリしました。
松本:なかったから、やったんだよね(笑)。
鷲尾:(はっぴいえんどは)岡林(信康)さんとかのバックでやってたじゃないですか。それで最初岡林さんのアルバムを聴いて、いいなと思って。でも何か岡林さんの歌い方とか、僕あまり(ボブ・)ディランの歌い方とか苦手でそれでその後で、だったらはっぴいえんど聴いた方がいいなと思い出して。で、はっぴいえんどを聴いたら、すごくしっくりきたっていう感じでした。だから、その後友達とかに宣伝してまわったんですけどね。でもなかなかレコード持っている人間は、いなかった。
ーー:いまだに鷲尾さんの家に行くと、「これ、いいんだよ。」って聴かされますけど(笑)。
鷲尾:『ゆでめん』は、「ニューミュージック・マガジン」の日本のロック大賞に選ばれたのを見のがジャケットを見た最初かな。で『風街ろまん』は、レコード・ジャケットの中の見開き部分がすごく好きだったんですよ。都電のイラストの。子供の頃都電に乗って出かけてたもので、これがすごくいいですよね。小さいときの風景に、重なるものがあって。ドラムを叩いていた頃には、どんなドラマーがお好きだったんですか?
松本:プロコル・ハルム、ザ・バンド(レボン・ハルム)、リンゴ・スター、もう1人いたんだよね。バッファローは、そんなにドラマーとしては好きじゃなかった。もう1人いたけど、忘れた。(編集部註:松本さんの『風のくわるてっと』によれば、もう1人はモビー・グレープのドン・スティーヴンスンです。)プロコル・ハルムのドラムって誰でしたっけ?
ーー:B. J. ウィルソンですね。
松本:そう、B. J. ウィルソン。彼とかイーグルスのドン・ヘンリーとか、ああいうズシンとくるのが好きなんですね。
ーー:この都電のイラストもそうですが、こういう当時の風景ってもうないじゃないですか。
松本:これって、なくなってすぐぐらいだよね、都電。
ーー:僕は66年生まれなんですが、60年代の末ぐらいまではこの辺でも走ってましたよね。
松本:これは71年のアルバムだから、多分68年ぐらいまでは走ってたよね。
鷲尾:長崎に行くと、当時都電が払い下げられていて。だから学生の頃旅行で長崎に行くと、このイラストの都電が走ってましたよ。
ーー:松本さんって東京の霞町(編集部註:今の港区西麻布)のお生まれですよね。
松本:そう。だからこのイラストの都電はね、わざと新橋行きに書き変えてもらったんだ。
ーー:これは赤坂見附ですかね?
松本:当時はやたらと空が(電)線で区切られてた。
ーー:はっぴいえんど時代の松本さんの詞を今読み返してみると、東京の風景の断片が言葉として出てくるじゃないですか。それは当時からあえて意識をして、言葉選びをしていたんですか?
松本:フォークに対抗していた、ということもあるんだろうけどね。フォークはすごくカントリー志向だったから。それに対抗して細野さんと「東京生まれはひ弱だね」って言ってて。やはり生命力に欠けるんだよね。吉田拓郎みたいな生き方が見出しみたいな人生はね...。シャイになっちゃうから。それならそれで、都会的な繊細さで対抗しようみたいな事じゃないのかな。でも拓郎はいなかったけどね、まだ。この後出てくる(笑)。
ーー:フォークが全盛の時代って、例えば自分の境遇とか環境を歌に込めていくタイプの人が割合多かったように思うんですが、その辺への対抗意識みたいなものはあったんですかね?
松本:4畳半フォークへの対抗意識は、あったよね。その他はあまりないけど。
ーー:当時日本で共感できるバンドって、いましたか?
松本:全くいなくて。だから独善的(笑)。自分たち以外は、すべてダサイ(笑)。だからすっごくいやなヤツだったと思うよ。
ーー:でも当時のライヴなんかでは、単独というよりは複数組が出演するイベントの方が一般的に多かったですよね。その時に、他のバンドって..。
松本:見もしなければ、聴きもしない(笑)。もくもくと楽屋でトランプやってて。自分たちの出番だけ行って、演奏して帰ってきて。

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