#14 関 美彦 PART 3 of SPECIAL INTERVIEW

SPECIAL INTERVIEW

関 美彦

12月6日に初のソロ・アルバム『Five Easy Pieces』をリリースする、シンガー・ソングライターの関 美彦。HOWのベーシストとしても活躍中の彼が放つ心温まる曲の数々は、美しいメロディが大きな魅力。サニーデイ・サービスの曽我部恵一のプロデュースで完成したこのアルバムについて、さらには彼が目指す音楽について色々とお聞きしました。

(初出『Groovin'』2000年11月25日号)

PART 3

関美彦-Aサブ.jpgー:あと見る側からすれば、対バンドと対ソロでは見方が変わりますよね。アコースティック・ギター1本ですから、当然ミスも目立つ訳ですし。聴こえ方も、その歌手が発した声そのものが伝わりますし。去年の12月に僕らのあるイベントで黒沢(秀樹)君に弾き語りしてもらった時に、1曲歌い終わった黒沢君が初めて発した言葉が「弾き語りって、大変だね。関さんを尊敬しました。お兄ちゃん(黒沢健一)もすごいなって思いましたけど」っていうんだったんですよ。
関:弾き語りだとお客さんの反応がすごくよく分かるんで、自分の歌えない言葉とかにぶち当たってしまうとそれがすごく(お客さんにも)見えてしまうんですよね。嘘を歌えなくなっちゃうというか。だから自分が歌える歌詞を書くっていうのも、すごく大変ですね。反応がダイレクトにあるんで。そういう中で自分が歌って自然な曲が、この『Five Easy Pieces』に入っているんです。自然と選ばれた曲が…「寝台列車」も「I'll Never Fall In Love Again」も。自分が弾き語りをする上で自然と出来る曲が、こういう曲たちなんです。
ー:では今、関さんがやっているHOWというバンドの曲とこのアルバムに収録されている曲とでは、作り方を変えたり分けたりしてます?
関:いや、今HOWで録っている曲は、元々このアルバムを制作している時期に作ったものなので、詞曲ともにこのアルバムの感じだと思います。自分の曲に関して言えば、この感じ。
ー:HOWとしての関さんが書いている曲が、この『Five Easy Pieces』に入っていても全然おかしくないっていう感じ?
関:全然おかしくないです。裏話をしてしまうと、ソロ・アルバムを出すっていう話を黒沢君にした時「曲がかぶらないようにしてくれ」って言われて。実は「コーヒー・カップ」っていう曲があるんですが…。
ー:「コーヒー・カップ」すごくいい曲ですよね。てっきりこの『Five Easy Pieces』に入ってくるかと思っていたんですが。この曲、結構ソロの弾き語りで以前から演ってた曲なんですよね。HOWとしてもバンドで何回も演奏されていて。
関:それが外れてるんですよ。
ー:発売中のHOWのミニ・アルバム『5 SONGS』に入っている、関さん作の「ひとりごと」も、これに近いテイストですよね。
関:でもあれは、仲村有紀ちゃんとの共同作業の中で出来た曲で、最初のメロディがいいっていうんで、それに合わせて作ったんですね。
ー:あとまだ発表はされていませんが、HOWの「Smile」という関さんの曲もありますよね。あれもどっちのアルバムに入るか?っていう感じだったんですか?(編集部註:今HOWはアルバムのレコーディング中で、その収録候補曲の中に「Smile」があります。)
関:あれも同時期に作った曲ですね。でもあの曲は自分では歌いきれなかったかも知れないですから、ああいう形で音づくりも含めて出来て、良かったんじゃないかな。
ー:ではHOWのアルバムが完成したら、その辺も含めて聴き比べて欲しいですよね。
関:ですね。でも出来るんですかね、ホントに。
ー:出来ないと困りますよ!あと話は変わりますが、今までの関さんの音楽経歴についてお話を伺いたいのですが。関さんと言えば色々なバンドでベースを弾いたりしてきたんですけど、最初にバンドを組んだのは?
関:Popsicleっていうバンドです。
ー:まだ学生の時ですよね?
関:そうです。84年頃ですね。高橋ひろっていう人と一緒に。
ー:ひろさんって、高校の同級生でしたっけ?
関:同じクラスでした、高2の時。当時は歌謡曲の話しかしなかったです。
ー:でもその辺で音楽的な繋がりとか…。
関:お互いに近田春夫が好きだったんで。
ー:それは意外な感じがしますね。
関:そうなんですよ、近田春夫の「オールナイト・ニッポン」が好きだったんで。
ー:じゃあ、その辺の話から盛り上がって、一緒にバンドをやろうと。
関:それが一番大きかったですね。
ー:当時はバンド組んですぐ、オリジナルを演ろうという感じだったんですか?
関:最初からオリジナル志向でした。それしかやる気が無かったですね。
ー:それで関さんが初めて書かれた曲が…この前ライヴでも演奏されましたが。
関:ホントは初めてじゃないんですけど、「風に誘われて」っていう曲ですね。ちゃんと最初から最後まで作ったのは、これが初めてでした。
ー:あの曲は、ひろさんの詞でしたよね。
関:はい。
ー:当時は頻繁にライヴをやったりとか、音源を残そうとか、そういう活動はやっていたんですか?
関:まずバンドをやる前に、高橋君とデモ・テープを作りましたね。その時は高3ぐらいじゃないですかね。
ー:関さんって、東京生まれの東京育ちですよね?
関:そうです。
ー:その辺の東京の感覚っていうのが、関さんの曲にはあると思うんですが。
関:そうですかね。でも東京でしか暮らした事がないので、逆に地方の感覚が分からなくて。地方はいいところなんだろうなとか思うんですけど、田舎がないので。親が住んでいたのはこの東京女学館のすぐ近くなんです。全然帰っていないですけど。
ー:関さんのお母さんは、紅白に出たこともある歌手なんですよね。
関:昭和30年代ですけど。三味線とかをバックにカツラ被って歌うような歌手だったんですけどね。
ー:お座敷小唄系の…市丸姉さんとかああいう系統ですよね。でも関さんは小さい頃から洋楽をよく聴いていたんですよね。
関:うちの親は自分ではそういう歌を歌っていたんですけど、家では全然そういうのは聴かない人で、当時としては割とハイカラ好みで、覚えているのが井上陽水の『氷の世界』と、当時の流行もので冨田勲の『月の光』というLPと、グラシェラ・スサーナとか、五輪真弓とか、キャロル・キングの『つづれおり』とかもありましたね。でもキャロル・キングはあまり好きじゃないって言ってましたね、全部同じような曲なんで。井上陽水はよく聴いていました。あとビートルズの8トラとか。
ー:そういう感じには、全然思えないですよね。関さんのお母さんがやられていた音楽って、純邦楽に近い感じの三味線弾きながら歌うようなスタイルだったんで。
関:うちの親はアメリカ人に生まれたかったって、よく言ってました。
ー:それはすごく意外ですね。
関:そうですか。家には三味線が置いてあって、たまにお稽古とかしてましたけど。
ー:でもそういうところへの反発というか反動があったのかもしれませんね。じゃあバカラックとかも、その時期から聴き始めたんですか?
関:そんな自然に家に流れていた訳じゃなかったですけど、ピーター・ネロのカセットとかそういう中に入っているのは聴いてましたね、今思えば。でも当時は全然バカラックとか分からなかったですけど。
ー:あとラジオの影響もあったんじゃないですか?
関:ラジオは小学校3年生ぐらいの頃からTBSラジオばっかり聴いてて、大好き。小島一慶とか、林美雄とか、松宮一彦とかそういう人のばっかり聴いてましたね。深夜放送が大好きで「パック・イン・ミュージック」とか、野沢那智&白石冬美とか。古いのばかりですみません(笑)。愛川欣也とか。その当時の「パック・イン・ミュージック」が、月曜が小島一慶、火曜が林美雄、水曜が愛川欣也で、木曜が那智&チャコ・パックで…。それを毎日聴いてて大好きでしたね。林美雄の「ユアヒットしないパレード」っていうのがあって、そこの1位が南佳孝の「モンロー・ウォーク」だったり(笑)。
ー:確か佐野元春の「アンジェリーナ」を最初にかけたのは、その番組ですよ。
関:そうなんですか。素晴らしいですね。あと「馬場こずえの深夜営業」とか。
ー:(笑)それを知ってる人は、大滝詠一ファンぐらいしかいない(大笑)。
関:夜中の3時からだったんで、あまりそれは聴けなかったですけど。その頃那智&チャコ・パックが木曜だったじゃないですか。でも中学生の時に「ビートたけしのオールナイト・ニッポン」が始まって、それがむちゃくちゃ面白くて。始まって2週目から聴いたんですけど、それ以来那智&チャコ・パックなんか忘れて(笑)ビートたけしを毎回聴いて。
ー:あの頃の「オールナイト・ニッポン」って、すごく面白かったですよね。
関:タモリとか所ジョージとか。
ー:高橋幸宏さんとかもやってましたね。あと中島みゆきさんとか。
関:中島みゆきは、ちょっとノリが違うなって思ったんですが。だから月曜は違うのを聴いてました。
ー:確か月曜の2部は当時、糸居五郎さんが担当されていて、僕はそっちを聴いてましたね。
関:糸居五郎は格好良すぎて、ちょっと中学生には分からなかったですね。
ー:そんな小学生時代を送りつつ…。
関:だから朝起きられなくて、それで登校拒否児になって(笑)大問題になって、警察とかに通報されたりして(笑)。
ー:何で警察に通報されるんですか(笑)?
関:学校に行くのが嫌だったんで、目黒の緑が丘小学校っていうところだったんですけど、小学校の近くに鞄を置いてそのまま遊びに行っちゃったら、鞄だけ発見されて(笑)。
ー:(大笑)誘拐事件にでも遭ったのかと。
関:はい、連れ去られたのかって警察に通報されちゃって、大変な問題児でした(笑)。今でも問題児ですけど(笑)。
ー:小学校の頃から、そんな感じだったんですね。
関:そんな感じだったんですよ。
ー:さて話を戻しますけど、高校時代に高橋ひろさんと出会って一緒にバンドをやり始めて、結局Popsicleは何年続いたんですか?
関:8年とか。91年までやってましたね。
ー:ひろさんがチューリップに参加されたのは、その後でしたっけ?
関:いや、それはチューリップをやりつつPopsicleもっていう感じでしたね、後半は。まさかチューリップに参加するとは思いませんでしたね。
ー:Popsicleの解散の原因は、何だったんですか?
関:あれは高橋君と僕の仲が悪くなったからです。今は仲いいですけど。最後の頃のライヴとかって、ロジャー・ニコルズの曲を3曲ぐらいやったりとかしていて。
ー:何やってたんですか?
関:「Love So Fine」とか「The Drifter」とか。
ー:それ見たかったですね。そんな曲をやってたんですか。
関:で、高橋君の志向とは全然違ってたんで。
ー:ではその辺で音楽的にも食い違いが出てきて。
関:はい、そうですね。
ー:でそのPopsicleの次は…。
関:Roofですね。
ー:Roofに参加された経緯っていうのは?
関:Roofの最初のメンバーがブリッジへと移行して抜けてしまって、たまたまそれを友達が聞きつけてきて、ベースを弾く人がいるっていうんで紹介してくれたんですけどね。で、行ってそのままメンバーになったと。ポニーキャニオンからミニ・アルバム出す時にメンバーがいないっていうんで、いきなりライヴ2回ぐらいしてレコーディングして。
ー:残っていた(オリジナル・)メンバーって、佐々木(光紀)さんでしたよね。ちょうど2枚目のアルバム(『トゥー・レーン・ブラックトップ』)の時ですよね。ちなみに関さんの前任のベーシストって、 カジヒデキ君でしたよね。
関:そうですね。カジ君、いい人ですよ。
ー:個人的にカジ君と繋がりとか、あるんですか?
関:特にないですけど、会えば「アーッ!」って感じで。
ー:昔、関さんが渋谷のHi-Fi Record Storeでバイトしていた頃、同じ渋谷のZESTってレコード屋さんに行くとカジ君がいて、僕はよく両方のお店に行ってましたね。
関:レコード屋さんの店員さんとしても、カジ君は親切な人で。
ー:結局Roofはどのくらい続いたんですか?
関:半年ぐらい。ドラムとベースを替えたいとかいう話が出てきて。で僕は辞めました。
ー:あの当時、同じようなギター・ポップ的なバンドが東京にいっぱいいましたよね。
関:ありましたね。いわゆるネオ・アコ系の人たちが。
ー:ちょうどフリッパーズ・ギターが出てきて、解散するぐらいの頃。
関:そうですね。その頃下北沢のシェルターとかでよく演ってましたね。サマンサス・フェイヴァリットとか。(編集部註:余談だが、91年12月31日に渋谷クロコダイルで行われたライヴ・イベント「Hello1992 acoustic revolution」には、関さん在籍のPopsicleをはじめ、ブリッジ、ヴィーナス・ペーター、Roof、マーブル・ハンモック、ロッテンハッツ、サマンサス・フェイヴァリット、フィリップス、ストライクスが出演している。)
ー:元々関さんの中に、そういうネオ・アコとかの志向はあったんですか?
関:あまりないんですよ。
ー:でもロジャー・ニコルズ演ってたぐらいだから、どちらかと言えばソフト・ロック寄りの志向ですよね。
関:でもネオ・アコも嫌いじゃなくて、ペイル・ファウンテンズとかそういうのは聴いてましたね。でもあまりマニアックじゃなかったですね。
ー:「Thank You」とか、いい曲ですよね。
関:いい曲ですね。あとそのトランペットの人がやってるディスロケーション・ダンスとか、ファンタスティック・サムシングとか、割とネオ・アコの中でもポップなものが好きだったですね。その辺はレコード屋さんで教えてもらったりとかして。レコード屋で一緒にバイトしてた子とかがネオ・アコがすごい好きだったんで、彼に教えてもらったりしましたね。
ー:80年代末から90年代前半って、そういう時代でしたよね。
関:そうですね、ネオ・アコを再発見するフリッパーズ・ギター以降の世代がいっぱいいましたね。彼らは僕より5つぐらい年下なんですが、その辺と同じ様な感覚でしたね。フリッパーズを聴いて音楽を始めた人たちと、多分近いものが。でも逆に彼らに教わった部分もありますね。ピチカート・ファイヴとかも大好きだったし。
ー:そしてその後は?
関:ブリッジが大好きでブリッジみたいなバンドがやりたくて、女の子のヴォーカルを入れてHeaven Boundを組むんです。
ー:その頃はやはりネオ・アコ志向が強かった時期ですか?
関:めちゃくちゃ強かった時期ですね。
ー:Heaven Boundとしての音源って、残っているんですか?
関:カセットが2本あるだけ。
ー:当時は完全にオリジナルですか?
関:カヴァーもありました。
ー:カヴァーはどの辺を?
関:「As Tears Goes By」とか、あとNRBQの「I Love Her, She Loves Me」とかやってましたね。
ー:NRBQですか。ライヴも演ってました?
関:渋谷のクロコダイルや、JAMとかバブルバスのイベントとか。
ー:その時の編成は?ユニット?
関:いえ、バンドです。ギター2人、ベースが僕、それにキーボードとヴォーカルと…6人編成ですね。ギターが1人抜けたりしましたが。割とポップな感じのバンドでしたね。それでHeaven Boundの最後の頃にクロコダイルでGreat 3と対バンしたんですけど、片寄君が真面目に真剣に音楽をやってるんで、僕もそういう風にやりたいとか思って。その頃たまたま僕の働いていたレコード屋に遊びに来ていた女の子とよく話するようになって、で何かバンドをやろうっていう話になって。で色々と聞いてみたらその子が元アイドルだっていうことが分かって、菊地陽子っていう名前をたまたま知っていたんで、で一緒にやろうっていうことになったんです。
ー:菊地さんって、アイドルだったんですか!
関:エピックからシングル2枚出してます。芸能界バリバリの人だったんで、「銭形平次」のテレビとかに出てたり、大村崑の名古屋公演で1ヶ月巡業に行ったりとかしてて(大笑)。
ー:町娘役ですか?そんなこともやられてたんですか。
関:そうなんです。そこからButter Fieldへと流れて行くんですけど。不思議ですよね。(編集部註:ちなみに菊地さんは83年に歌手デビュー、また同年にはあだち充原作のNHK少年ドラマシリーズ「だから青春泣き虫甲子園」にも出演するなど、役者としても活躍。「風色タッチ」「ねがわくば…Kiス」の2枚のシングルをエピックからリリースしている)
ー:Butter Fieldとして最初に目指したのは、どんな音楽だったんですか?
関:当時、竹内まりやの『Impressions』というアルバムが出ていて、ああいうのをやりたかったですね。むしろ拘りのない音楽というか。
ー:純粋なポップス。
関:そうですね。
ー:Butter Fieldの曲作りはほとんど関さんでしたよね。
関:そうですね、でも一緒にガンガンスタジオに入ってましたんで、僕が元になるものを作って、彼女がメロディを書いてとかいうのも、結構多かったですよ。
ー:当時も曲が先ですか?
関:そうです。最初の頃はHeaven Boundでやってた曲をやったりしていたんですが、とりあえず2人だったので。
ー:今回の「Christmas Song 2001」も元々はButter Field時代にやっていた曲で、だから作詞がButter Field名義になってるんですね。で当時、ミニ・アルバムが1枚出ていますが。
関:そうですね。(Butter Fieldも)もうちょっと続けていれば、違う展開もあったのかも知れませんが。
ー:あのCD(Butter Fieldの唯一のアルバム『アーリー・オータム』)を出すきっかけっていうのは、何だったんですか?
関:インスタント・シトロンの片岡知子さんがよくHi-Fi Record Storeに遊びに来ていて、ある時東芝のディレクターを連れて来たんです。で、デモ・テープを渡したらすぐ(アルバムを)作ろうっていうことになって、割とすんなり決まりましたね。それで作ることになりました。
ー:あのアルバムにはGreat 3や、ヒックスヴィルの真城めぐみさんも参加してますよね、コーラスで。
関:ちょっと前になりますが、片寄君もよく店に来ていたんで。
ー:レコードのコメント・カード書いてくれたり。
関:ちょうどロッテンハッツを辞めて、何もしていない時だったんで。
ー:Great 3を始める直前ぐらいですね。
関:そうです。
ー:あの『アーリー・オータム』には、今回の『Five Easy Pieces』に近い曲調のものもあったり、あともっとラテンっぽいものとかもありましたよね。1曲目の「Make Me Smile」とかは、今回のアルバムとは全然違う曲調ですし。
関:メンバーとかプロデューサーの意向もありますし。あれはセヴィリン・ブラウンみたいな曲を作りたくて。バンドでアレンジしていくうちに、ああなったんです。イントロをプロデューサーの今井さんっていう人が「シャフト・イン・アフリカ」から持ってきて、全体のリズム・アレンジをビル・ウィザースの「ラヴリー・デイ」みたいにしたかったんですね。
ー:最後の「夢のつづき」っていう曲が、比較的今作に近い感じの曲調ですかね?
関:そうですね。でもあれを作った時は、演歌みたいな曲だなとか思って作ったんです。
ー:コーラスは…。
関:Great 3ですね。
ー:で、ついにButter Fieldはアルバム1枚を残して解散してしまうんですが、その後は…。
関:色々とヴォーカリストを探していたんですよ。でも全然いい人が見つからなくて。その頃、3人(の候補のヴォーカリスト)と一緒にやりましたかね。でもしっくり来るヴォーカリストがいなくて、月日だけが流れていくという状態で。
ー:そんな中で、じゃあちょっと弾き語りでもやってみようか、っていう感じだったんですか?
関:そうでしたね。次郎長バーという場所があって、そこで岡田(崇)君とかがクリスマスのイベントをやるから、一緒に何かやろうみたいな話になって。そこでギター弾いたり。
ー:その辺がこのアルバムへと繋がる第1歩だった訳ですね。
関:そう、最初の所はそんな感じでしたね。
ー:最初に弾き語りをしたのは、先ほど話に出てきたBar青山でのパーティー?
関:そうですね、自分1人でやったのは。すごく印象に残っています。
ー:その流れもありながら、去年の秋からは黒沢秀樹君たちとHOWというバンドを結成して活動を始める訳ですが…。
関:僕はサラダ(編集部註:HOWのメンバーである、仲村有紀と笠鳥高生が結成していたユニット)が大好きだったので、一緒にやれて良かったと思いますね。
ー:あのHOWの結成も、ほんと偶然でしたよね。元々は関さんが『Barfout!』という雑誌でサラダの2人を取材して…。
関:そうですね、色々な人の取材をしたんですけど、サラダはよかった。
ー:それが元になって、一緒にバンドをやることになったと。黒沢君と初めて会ったのは、いつ頃だったんですか?
関:もっと全然前。Popsicleの時。吉祥寺のB Pointというライヴ・ハウスで。
ー:対バンだったんですか?
関:対バンはしてないですけど、Popsicleにいた女の子がB Pointに出入りしていて。当時黒沢君はまだL⇔Rではなくてラギーズというバンドで、その子がラギーズがいいんだっていうんで見に行ったんです。
ー:そのラギーズでは、もう黒沢君は兄貴(黒沢健一)と一緒にバンド組んでたんでしたっけ?
関:そう、ドラムとベースは違うメンバーでしたが。その時に知り合って。
ー:当時の黒沢君は、もう既にL⇔Rみたいな音をやってたんですか?ブリティッシュ系の。
関:そうです、後にL⇔Rでやる曲もあるし。
ー:そうなんですか。ではその当時からお互いに知っていて…。
関:それで暫くぶりに会って。
ー:それはいつ頃?
関:去年のブライアン・ウィルソンの来日の頃。
ー:そこまで行くんですか?じゃあ最近ですよね。
関:7月頃ですかね。
ー:ではそこで会って、急に一緒にやろうっていう風になったんですか?
関:急でしたね。黒沢君もちょっと時間が取れたんで。そうその前に一緒にサラダのCD買いに行ったりして。(編集部註:話には出てこなかったが、1999年3月19日O.A.東海ラジオ「黒沢秀樹の金シャチアワー」に、関さんはゲスト出演している。その際にはサラダの「バラフライ」をO.A.)あっ、その前にハイ・ラマズを見に行きましたね、一緒に。
ー:黒沢君のソロ・アルバム(『Believe』)の時のライヴには…。
関:行きました。でもその時は会ってないです。打ち上げにも出てないですね。だからハイ・ラマズを見に行ったその前後ですね、再会したのは。
ー:そこで突然繋がりが出来て。
関:でもHOWはまだ制作の渦中なんで、話づらいですね(笑)。
ー:その辺は是非、次のインタビューの機会にでも。
関:あるんでしょうかね(笑)。
ー:ありますよ。さて話を戻しまして、この『Five Easy Pieces』は関さんから見てどこを聴いて欲しいですか?
関:声とその空間みたいなもの。
ー:空気感とか?
関:空気感。
ー:あと参加してくれた黒沢君と曽我部君に一言ずつ。
関:黒沢君には「一緒にHOWをがんばりましょう」ということで。曽我部君に対しては、どんなに感謝しても感謝しきれないぐらいのものがありますね。
ー:多分サニーデイ・サービスのファンの方も、これ聴かれる方が多いですよね。
関:聴いてくれたら、嬉しいですね。僕が曲作って弾き語っているんですけど、でも作品としては曽我部君と半々ぐらいという感じですよ。作り上げたという意味では。
ー:そういう意味では、曽我部君に感謝ですね。
関:感謝ですね。家に泊めてくれた時から感謝ですよ(笑)。
ー:でもまさかその繋がりが、今こうしてアルバムになるとは。
関:そこが曽我部君のすごい所ですね。
ー:運命的なものを感じる所もありますよね。
関:どこに出会いがあるか、分からないですよね。
ー:では最後に今後の活動予定を。ソロとしては今後どうなんですか?
関:弾き語りは続けていきたいですね。でも来年以降、また違った形の音楽もやっていきたいですね。
ー:でもこのスタイルが変わることがないですよね。
関:基本的には。
ー:このアルバムを聴いて、是非関さんの弾き語りを生で聴きたいっていうファンもいると思うので。
関:そう言って頂ければ、また出来るかもしれないですね。でもその前に新しい曲が出来るのかっていうのがありますが。
ー:次のアルバムはあるんですかね?
関:どうなんでしょう。でも違う形でやるかも知れませんし。これはこれであって、HOWともまた違った形で。あまり決めないでやっていきたいです。
ー:ではファンの方へメッセージを。
関:気軽に聴いて欲しいですね。
ー:でも6曲入りでこんな短いアルバムも、最近珍しいですよね。長くて1曲2分半とか。
関:短いですね(笑)。でも曲を素にしてしまうと、そんな感じになっちゃうんですよね。それは多分どんな曲でもそうだと思うけど、延ばしてもいないし、わざと短くもしてない感じですね。色んなアレンジが加わってくれば、もっと当然長くなってくるだろうし。でもCDにするから長くしようとかそういう発想は全くなくて、もう普段やってるそのままのスタイル。
ー:普段の関さんをそのままアルバムにしました、っていう作品ですね。
関:その通りです。気に入ってくれたら嬉しいし、気に入ってくれなくても、それでいいし。
ー:そうそう、このレコード持ってきて触れるの忘れてました。MGMから出ていたジョン・セバスチャンの『LIVE』っていうアルバムなんですが。
関:これ、曽我部君の家でいいからって言って聴かされました。
ー:このジョン・セバスチャンのアルバムって弾き語りなんですよね、ギター1本の。アコギとエレキが半々ぐらいですかね。ラヴィン・スプーンフルの曲とかもやっていて。
関:「You're Big Boy Now」が好きですね。
ー:これ聴いたときに、関さんってこういうのが好きなのかなって思って、しかもここに入ってる「Magical Connection」を関さんはよくライヴでカヴァーしているんで。この辺に原点があるのかなっていう感じがしたんですが。
関:どちらかというと、結果としてそうなったという感じはしますね。
ー:このライヴ盤聴いて、こういう音楽をやろうと思った訳じゃないですよね。
関:そういう音楽じゃないですね。こうならざるを得なくてなってて、たまたまこういう音楽を取ったっていう感じですね。
ー:でも感覚的にすごく近いものがありますよね。
関:蟹座同士ですから(笑)。
ー:蟹座なんですか(笑)。何で関さん、そういうのチェックしてるんですか(笑)。前もライヴのMCでスティーヴィー・ワンダーやバカラックの誕生日がいつだとか、言ってましたよね。林家ペーみたいに(笑)。
関:キャロル・キングが2月9日だとか(笑)。
ー:そういう雑学、関さんすごいですよね。
関:小さい頃から雑学博士と呼ばれてましたから(笑)。
ー:では今日はありがとうございました。
関:長い間、ありがとうございました。

(2000年10月16日 ミディにて)
インタビュー&構成:土橋一夫(編集部)

『Five Easy Pieces』
関美彦-J.jpg



CD
Q&A COMMUNICATIONS/ミディクリエイティブ
CXCA-1075
¥1,600(税抜)
12月6日発売

サニーデイ・サービスの曽我部恵一プロデュースによる関美彦の弾き語りアルバム。黒沢秀樹(L⇔R)とHOWを結成し活躍中の彼は、バート・バカラックにも通じる美しいメロディと優しさを備えた、独特の世界を展開。囁くようなヴォーカル・スタイルも、じっくり聴くとクセになりそう。

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