「佐野史郎、はっぴいえんどと音楽を語る」 of SPECIAL INTERVIEW

■はじめに(2010年7月2日:追記)
 この佐野史郎さんへのインタヴューは、『Groovin'』が創刊される約10ヶ月前に行ったもので、その当時スタートしたばかりのすみやのインターネット・ショップ「サイバーショップ」にてアップしたものです。そしてこのインタヴューが、その後『Groovin'』をスタートさせる1つの大きな切っ掛けとなりました。そういう意味では、まさに『Groovin'』の原点となった取材、と言っても過言ではありません。

SPECIAL INTERVIEW

「佐野史郎、はっぴいえんどと音楽を語る」

 記念すべき第1回目となるスペシャル・インタヴューは、テレビや舞台で大活躍の俳優、佐野史郎さんの登場です。佐野さんは自他共に認める音楽ファンであり、特に高校時代に聴いて影響を受けたという、はっぴいえんどや遠藤賢司の熱烈なファンであります。そこで今回は佐野さんに、はっぴいえんどを中心とした1960年代末から70年代初めの音楽シーンについて、たっぷりとご自身のエピソードも交えて語って頂きました。
 尚このインタヴューは、1998年12月20日に佐野さんのご自宅にお邪魔して行いました。さらに佐野さんの高校時代からの親友でありバンド仲間でもある、小川功さんにも参加して頂きました。
 どんな話が飛び出し、どんな方向へ行くのやら。それでは最後までお付き合い下さい。  

(初出:すみやサイバーショップ/1998年12月)

PART 1

sano1.jpg★思わぬつながり
土橋:今日はお忙しいところ、お宅までお邪魔しましてすみません。どうぞよろしくお願い致します。
佐野:いえいえ、どうも。
土橋:そう、早速なんですが昨日下北沢を歩いてたらばったり(レコーディング・)エンジニアの藤井(暁)さんにお会いしまして、明日佐野さんにお会いするっていいましたら、これをお渡し下さいとの事で...。(註:佐野さんと藤井さんとは、昔から面識があるようでビックリ!そして藤井氏手書きのメッセージ入りポスト・カードを手渡す。)
佐野:これはこれは。
土橋:ここ数年、藤井さんはフェイ・ウォンの仕事を担当されていて。今はHaLoというアーティストというかプロジェクトのプロデューサー&エンジニアをなさっていて、ルイ・フィリップとイギリスで仕事してますね。で以前、私があるレコード会社で制作をやっていたときに、ローリング・ストーンズの東京ドームでやった来日公演のビデオを出すことになりまして、その時にエンジニアとして藤井さんに参加して頂いたというつながりで...。
佐野:すごい髪の長い方でね...。
土橋:藤井さんといえば久保田麻琴さんとか、細野(晴臣)さん関係とか関わられてた方で...。それからもう1つ。おみやげを。フィレスのシングルなど。
佐野:あらららら。クリスマスですか。
小川:ダーレン・ラヴの「クリスマス」ですね。
土橋:佐野さんのことですから大滝さんの家に達郎さんが初めて行ったときに、レコード持っていったという話などご存じかなと。
佐野:もちろん。そうなんですよね。
土橋:エリー・グリニッジでしたっけ。で今日は季節柄、これがどうかなって思いまして。
佐野:ありがとうございます。すみません。これはこれは。
土橋:いつもラジオがらみのものは、私もだいたい聴かせて頂いておりますけれど、例のFM横浜のヤツも…。(註:FM横浜がYOKOHAMA RADIO[通称ハマラジ]に改名したのを記念して、93年10月8日に放送された特別番組「YOKOHAMA RADIO開局記念番組 NIAGARA SPECIAL」のこと。大滝詠一がメインDJを務め、ゲストとして光岡ディオン、永井美奈子、高田文夫、佐野史郎、萩原健太の各氏が登場。ナイアガラ・ファンの間では大きな話題となった。佐野氏はこの放送の中で、大変なはっぴいえんどフリークぶりを披露。71年の中津川フォーク・ジャンボリーの実況盤に「ええど、ええど」という佐野氏の肉声が録音されているという事実を自ら明らかにし、大滝氏をアッと言わせた。)
佐野:いやー、お恥ずかしい。
土橋:いやー、あれは僕らファンにとってはとても嬉しいですからね。
佐野:しゃべり過ぎちゃったんですよね。一挙に堰を切ってしまって。
鷲尾:佐野さんは何年生まれでしたっけ?
佐野:(昭和)30年ですね。
鷲尾:早生まれですか?
佐野:早生まれの30年です。
鷲尾:僕、29年の12月なんですけど、ということは同じ学年ですね。土橋君はちょうど一回りぐらい下なんですよ。
土橋:僕は(昭和)41年ですね。
鷲尾:彼らの世代だと、はっぴいえんどは大滝さんの『ロンバケ』(註:もちろんあの名盤『A LONG VACATION』のこと)から入ってるという...。
土橋:もう完全に大滝さんから。『ロンバケ』を中学3年の時に買って、そこから逆行して聴いていって、はっぴいえんどへといくパターンですので。
佐野:ということは今25、6の人っていうと、それからさらに6、7年下って事ですよね。東大の学生で大滝さんファンで、エプソンに務めてナイアガラの「非公認公認」のホーム・ページ開いている方がいるんですが、彼が番組一緒だったんで学生時代に、で大滝さんについても良く知ってて、で色々繋がってるんですけど。彼なんかはどこから入ったのかな?
土橋:多分『ロンバケ』以降の作品を聴いて遡るパターンが多いですよね。丁度僕らの世代だと、例えばORIGINAL LOVEの田島貴男君とか、奥田民生君とかがだいたい同世代なんですけど、中学・高校時代に大滝さんと出会ってっていうパターンですよね。
佐野:多いんだな、そういう人が。
土橋:ですから完全に後追いなので、気が付けばはっぴいえんどが再結成してましたから。85年の。
佐野:85年でしたっけ。さて、どこから話ましょうかね。まー、順を追っていきましょうかね。


★音楽との出逢い
土橋:でまず、佐野さんが音楽を聴かれるようになったきっかけなど。
佐野:そこからいきますか(笑)。
鷲尾:受動的に当時流れているものを聴いたとかというのではなくて…。
佐野:となるとやはりビートルズですね。最初に買ったのは「HELP/I'M DOWN」のシングルなんですけど、アルバムは『REVOLVER』とかだったのかな?小学校5、6年生の時だったと思うんですけど。
鷲尾:『RUBBER SOUL』が1965年で、『REVOLVER』が66年ですね。
佐野:じゃあ1966年、6年生ぐらいの時かな。ただ5年生ぐらいから自転車で町の中プラプラ歩いてて、ちょっと外れの方だったんですけど、小学校が。来日前から結構不良の代名詞みたいにビートルズが言われてて、で当時は(ビートルズの)顔が分からなくても髪が長いとビートルズだっていうのが慣用句としてあって(笑)、その後で言うとアングラやサイケみたいなものと同じ様な感覚でビートルズが語られていて、その前だとジャズみたいなものでしょうね。「ジャズなんかばっかりやって。」みたいな言い方でビートルズが言われていて。そういう不良っぽいって言うかね、反社会的なものっていう使い方をされてたと思うんですけど。そんなので小学校4年生ぐらいからプラプラしてたんですよ。でレコード屋さん行くのが好きで。GSはまだそれ程ではなかったけれど...何が好きだったんだろうな?
鷲尾:加山雄三とかは聴きました?
佐野:あー、そうだそうだ。そうですね。東宝の怪獣映画と一緒にやってるクレイジー(・キャッツ)のシリーズと、若大将シリーズとがあって。「エレキの若大将」とかもっと後の方だったのかな。
鷲尾:「エレキの若大将」とかは多分小学校6年生ぐらいだったと思うんですけど。
佐野:クレイジー・キャッツは結構よく見てたから。ただそこでバンドものを(レコード店で)見てたかどうかは分からないけど、まあレコード屋さんでシングルをパラパラ見るのが好きだったんですよね。あと東京ビートルズ...が。
土橋:東京ビートルズ!(笑)
佐野:東京ビートルズのソノシートがあったんですよね。
土橋:レコードと全然違う音源ですよね。
佐野:全然音は覚えてないんですけど、あったのよ。それが直接のビートルズ体験。東京ビートルズってわりと早くありましたよね。来日より早いですよね。
鷲尾:63年ぐらいからじゃないですか。
佐野:だからだ!それでなんかビートルズっていう実体に入る前に、ソノシートで最初に触れたんですかね。かけてもらったのかな?覚えてないけど。ただすぐその後に「ALL MY LOVING」とか「SHE LOVES YOU」とか、あの辺のビートルズのレコードが店頭に並ぶようになって。でもビートルズのシングルより東京ビートルズに行ったっていうことは(笑)、ビートルズが(店頭に)無くて東京ビートルズ買ったのかな?(笑)でもその可能性がありますよね。
土橋:間接的にそれでビートルズに入ったっていう可能性、ありますよね。
佐野:その可能性ありますよね。へたすりゃ3年生だったかもしれない。
鷲尾:そうですね。小学校3年か4年か。
佐野:そうですね。(江戸川)乱歩とか読み出した頃と同じですからね。確かそうだ...(当時の様子を思い出しながら)...あれも天丼屋の帰りだったかも知れないな。
小川:思い出した?
佐野:そうそう、ずっと歩いていって、(レコード店に)入って、(東京ビートルズのレコードを)取ったんだわ。東京ビートルズが先ですね。どうやら。でも音は覚えてないですよ。で、その後ビートルズのレコードを手にするようになって、でも全然情報がなくて雑誌とかもちろん小学校4年生ぐらいじゃわからなくて。「ミュージック・ライフ」読み出したのが5年生ぐらいからだから...だからビートルズが来日するっていうんで雑誌手にするようになったんじゃないかな。「ヤァ!ヤァ!ヤァ!」とか映画館でやってるのは分かってたけど見そこなって。曲名はそれ(音楽雑誌)で覚えましたよ。でもちゃんとは覚えられなくて。で(レコード店で)かけてもらってどれがいいかな、みたいな感じで。割とロックン・ロールが好きで、「LOVE ME DO」よりは「TWIST AND SHOUT」の方が分かりやすかったんで好きだったんじゃないかな。それですね。入り口はね。
土橋:ということは、入り口は東京ビートルズだったわけですね。
鷲尾:東京ビートルズを経てビートルズに行ったと。
佐野:ありゃりゃりゃりゃー。
土橋:これはすごいですね。高田文夫さんみたいだ。
佐野:しまったなー(笑)。
土橋:高田さん、東京ビートルズを松竹セントラルで見たとか言ってましたね。あの例のFM横浜の番組でも。
鷲尾:日本の音楽...加山雄三からGSぐらいまではどうでしたか?
佐野:まあ、「ヒット・チャート」っていうTV番組なんかで見てて、荒木一郎なんか好きでしたね。だから加山雄三より荒木一郎のが好きだったかな。「いとしのマックス」とか今でも好きで。
鷲尾:その頃は松江にいらしたんですか?
佐野:そうです。
鷲尾:僕の小学校後半から中学時代にかけてGSが出てきたときには、GSって女の子のものっていう感じが強くて、男は本当はGS好きなんだけど、クラスの中でGSを語るっていう人はあまりいなかったんですよ。家に帰ってこっそり見たり聴いたりしてるというか。佐野さんはどうでした?
佐野:僕はね、そういう意味じゃほとんど女の子だったんじゃないかな。背も低いし、野球したりスポーツする方じゃ無かったし、運動は苦手だし。自分じゃそうじゃないっていう説もあるんですけど(笑)。鬼ごっことか探偵ごっことかいうのなら燃えるけど、いわゆる戦闘物とかじゃなくって...。
鷲尾:体育会系じゃないっていうことですよね。イン・ドアというか。
佐野:そう、外に出ていたとしてもね。アジト作るとかそういうのは好きなんですけどね。でGSが始まったときはブルー・コメッツはあまり好きになれなくて、でスパイダースとか...本格的には67年からですよ。小学校6年生の時からですね、そのときにはっきり分かって。でも楽器は演奏しなかったですけど...バイオリンはやってましたが...あまり好きではなくて。クラスでもビートルズが来日したときには、学校中大騒ぎで、担任の先生ですら今日はビートルズのテレビ中継があるから早く帰ろう、みたいな感じでしたから。で予餞会や謝恩会ではベニヤ板切ってギター作ろうみたいなのが流行って。で、バンドを組もうみたいな流れへと。でもはっきりとGSで興味を持ったのはスパイダースじゃないですか。どこからどこまでが歌謡曲でどこまでがGSっていうのが難しいですけど。あと「プラチナ・ゴールデンショー」っていうのがあったんですよ。万年筆のプラチナの提供で藤村有弘さんが司会で。「プラチナ・ゴールデンショー」は中学時代もやってたけど、小学校の時もやってたような。そこに中尾ミエ、伊東ゆかり、園マリ、つまり東宝系の人とか尾藤イサオとかが出てて、そこでロックン・ロールとかサーフィンとか、あとツイストとか...。ツイスト・ブームでしたね。
鷲尾:ツイストって一世風靡しましたもんね。
佐野:そう、それでツイストで、それで「TWIST AND SHOUT」なんだ。ツイストの次はサーフィンだぜ、なんていう事を小学校4年生ぐらいで言ってたのを覚えてるから。あとスイムとかね、橋幸夫のね。舟木一夫のデビューの瞬間とかテレビで見たのも覚えてますよ。だから「プラチナ・ゴールデンショー」って大きかったんじゃないかな。GSじゃなくてもそういったものやリズムを知った番組でしたからね。
土橋:当時の歌謡曲系の番組って洋楽のカヴァーも多かったですから、で例の漣健児さんのリイシューが話題になりましたけど、まさにあの時代で...。
佐野:スリー・ファンキーズとかジャニーズとか、そんな時代で。その辺は受動的かもしれないですけど。で音楽(が好きなこと)に気が付いて、でもビートルズが来日してからですよね、はっきりそれがただのイベントだったのかそうじゃなかったのかと。でクラスの中でもバンドが出来始めて、1人ぐらいおもちゃのエレキ・ギター持ってるやつがいたりして、俺はウクレレ弾いてたけど(笑)。ウクレレとガット・ギターとかの編成で、とにかくバンドやろうということでやってたから。
鷲尾:僕も小学校6年生の時に1人いたんですよね、友だちでエレキ・ギター持ってるヤツが。彼が仲間3人ぐらい集めてバンドやってましたね。それが唯一電気楽器を持ってるバンドで…あとはみんな電気楽器自体、持っていなくて。
土橋:家にあるウクレレとか。
鷲尾:ドラムとかもなかなか無くて。
佐野:その頃はベンチャーズ派かビートルズ派かという討論が日々なされていて。
土橋:あとは「勝ち抜きエレキ合戦」とかですよね。
佐野:そうですね。あと何か謎の番組があったな。ハナ肇さんが司会のGSの番組があったんですよ。これは結構マイナーなもので、タイガースのほんとデビューの頃ぐらいからやってたような記憶が。でもスパイダースを小学校6年生の時に既に生で見ちゃったから、それでもう「風が泣いている」とかもうあの辺はあの「プラチナ・ゴールデンショー」で見た歌謡曲と同じように僕の中に入って来てて。で、スパイダースのEPとか手に入れて、かまやつさんがやってる「ブーン・ブーン」とか聴いて、これはかっこいいと思って。あまりビートルズと分け隔てなく聴いてたんじゃないですかね。
小川:スパーダースとかは、小学生の時、誰と見に行ってたの?
佐野:(実家の病院の)看護婦さん。
鷲尾:基本的には、小学生同士では行けなかったですよね。
佐野:そう。中学に入ると行っちゃ行けないとか言われたけど、小学生の時はまだ子供扱いだから行けたんだよね。
土橋:そういう時代ですよね。
佐野:そうそう。
小川:ということは、看護婦さんにもそういう音楽の情報が入ってたっていうことだよね。
佐野:そう、僕がそういう音楽を聴いてると、そういうの好きな人が1人いて。でもチケットは商店街の何かで当たったんじゃないかな。それで連れてってもらったんじゃないかなと。
小川:中学校から禁止だったっけ?
佐野:いや全部禁止じゃないけど。ただ中学になると「シャボン玉ホリデー」も含めてGSは全盛になってて、タイガースはちょっと遅れてたけどGSは出揃ってて。
小川:タイガースは見に行った?
佐野:いや、チケット手に入れてたけど、やっぱりダメだったね。1番ピークの頃だったから。もう解散間際のテンプターズとかは見たけど。それと並行して深夜放送聴き出してるから、どっちかっていうと日本のモノの方が多かったかな、でも両方だな。1967年頃から洋楽もサイケデリックに移行してて、でもう『サージェント・ペパー』は中学1年生の12月のクリスマスの頃だったと思うんですけど世界同時発売されてて。
鷲尾:タスキ付いてましたよね。"世界同時発売"ってコピーの入った。
土橋:じゃあその辺から深夜放送に入りつつ、ヒット・チャートものへも...。
佐野:そうです。もう東西問わず、サイケデリックやアンダーグラウンドなもの、あるいはロックなものへとなだれ込んでいく訳ですけど。


★はっぴいえんどとの出逢い
土橋:その中で60年代後半から、例のはっぴいえんどの人脈へと入って行くと思うんですけど。最初にはっぴいえんどの名前を聞かれたのは、いつでしたか?
佐野:それは70年の秋ぐらいじゃないですか。10月とか11月とか。例のビクター盤ですね。
土橋:それ以前にフォークとかは聴いてました?
佐野:まあ「バラが咲いた」とかPPMとかはヒット・チャートにはいたし、聴いてましたよ。
土橋:あまりそちらには興味がなかったですか?
佐野:キングストン・トリオとかね、聴いてましたけどそんなにはね。
鷲尾:あの辺の音って、あんまり不良っぽくないですからね。
佐野:ただまあヒット・チャートでは聴いてたましたけど、そんなには。
土橋:『ゆでめん』(註:はっぴいえんどのデビュー・アルバム『はっぴいえんど』の通称。林静一画のジャケットにゆでめんの看板が描かれていることから、こう呼ばれる。)は70年8月5日に出てますけど。
佐野:その時はまだ手に入れてないですね。専らビクターのライヴ盤(註:『第2回全日本フォーク・ジャンボリー』/VA. [ビクター/SVJ-477〜8] のこと)で。
鷲尾:8月に70年の第2回フォーク・ジャンボリーがあって、その音源をすぐに起こしてプレスしたんでしょうから、で秋にビクターから出て。
土橋:ビクター盤は70年の10月5日ですね、発売が。キング盤(註:『自然と音楽の48時間 '70全日本フォーク・ジャンボリー実況録音』/VA. [キング/KR-7018〜9] )のこと)も同じ頃。じゃああまりフォーク的なところから入ったというよりは...。
佐野:でも岡林さんのバックでしたから。そういう意味じゃフォークも。でもスパーダースが大きかったよね。やはりライヴで見て、生のステージ見て生まれて初めてそういうロック・バンド見たでしょ。インパクトあったから。かまやつさんいいなって思って、「ノー・ノー・ボーイ」とか「真珠の涙」とかああいう曲好きだったから。でも彼らは積極的に洋楽もカヴァーしてたから、そういう姿勢にも惹かれてたし。ゴールデン・カップスなんかも好きだったけど。でもやはり(洋楽を)自分のモノにしてるっていう感じは、スパイダースの方がありましたね。サウンドにしても、歌詞にしても。そんなものを聴いてるうちに、深夜放送から「帰ってきたヨッパライ」の大ヒットですよ。好むと好まざると、あの曲がヒットしちゃって、アングラ・サイケという言葉が情報として語られるようになって、サブカルチャーが表に出てきてしかもビジネスとして成立するという、その最初でしょう。それまでは、何でも表に持ってくるということが趣旨だったんでしょうけど、あれ以降はあくまでもサブカルチャー・シーンのものをそのまま、まあ変えたとしても本人のアーティストの志向を変えたというのではなくて。それは実はGSなんかもそういった二面性持ってて。その意志をダイナマイツみたいにはっきり分けちゃってると、その辺はかえってつまらなかったりするんですけど。その楽曲の中やステージの中に(アーティストの志向を)込めようとしていたグループが、僕たちも好きで。だから、あまりコアなものばかりに惹かれていた訳じゃなかったんです。むしろジャックスとかは、結構好きだったけど距離をちゃんと置いて見てましたよ。大好きだったんだけど。「ヤング720」とか番組はあったから、視覚的にも67年以降は見られましたし。それでフォーク・クルセダーズのステージを見に行ったんですよ。それで、フォークとか反戦歌とか、ジョーン・バエズとか、ああいうものから岡林さんへ繋がっていくと。で、67、8、9年は加藤和彦さんを筆頭として、ジャックスや...フォークルがジャックスをカヴァーしてたりとか、フォークを引っぱり出してくるのにフォークルの力は大きかったと思うんですけど...あと遠藤賢司とか。カレッジ・フォーク・リサイタルとか和製ポップスとか言っていた当時の中で、まあ加藤さんが触手を伸ばしているものには当然惹かれていって、そうすると確かにいいなっていう感じで。そうするとそこから、ビートルズはもちろん、ドノヴァンとか...もうヒット・チャート入ってましたけど...ディランは楽曲でしかヒット・チャートに入ってこなかったから、実は全然聴いてなくて。ですから高石音楽事務所系列...のちのURC系のものと、まあビートルズが解散に向かう3年間を、リアルタイムで追っていって。でピンク・フロイドがデビューし、ティラノザウルス・レックスとかフーとか、ジミヘンとか、軒並みヒット・チャートに入ってましたから、その辺を聴いてるうちに中学時代が終わる、と。
小川:中学時代は、その辺のシングルを買ってたの?それともLPを買ってたの?
佐野:シングル、シングル。だから今でも変なシングル、いっぱいあるんだよ(笑)。
小川:フォークルを見に行ったのは何年?
佐野:67年じゃないかな。
鷲尾:そうですよね。1年間しかやってなかったから。
小川:そうか。
佐野:白潟だよ。あそこの体育館でやったんだよ。公会堂が県民会館に建て直し中だったから。
鷲尾:当時は好きなモノっていうのは勿論あるんだけど、カテゴライズして聴くんじゃなくて雑食ですよね。シングルで追いかけていくと、どうしてもそうなりますよね。自分もそうだったけど。アルバム買うにはお金も無かったしっていうのもあったけど。
佐野:そうですよね。でもビートルズだけ「サージェント・ペパー」と「ホワイト・アルバム」「アビー・ロード」「レット・イット・ビー」これだけはリアルタイムで買ってましたけど。
小川:でも佐野は医者の息子で金持ちだから、いっぱいレコード持ってたんですよ。
鷲尾:クラスに1人ぐらいそういう子がいるんですよね。
小川:2人いたね。
鷲尾:うちのクラスのも、バイオリンやってました。大きな家に住んでて、ビートルズを輸入盤と国内盤の2本立てで持ってたりして。
小川:そういえば歯医者の息子に、そういうのがいましたよ。聴く用と保存用と飾り用と3枚持ってて。
土橋:開けないヤツがあるんですね。
佐野:相当上手(うわて)だったね。あの人はね(笑)。
小川:高校の時、佐野がいっぱいLP持ってて。
佐野:あ、そう!?よく覚えてるね。
小川:だから今、何を(その頃)持ってたのか、知りたいな、と。当時全部チェックした訳じゃないから。
佐野:今でもあるよ。貴重盤で言えばバニーズの「レッツ・ゴー・バニーズ」とか見たことない?
鷲尾:話戻りますけど、はっぴいえんどは岡林信康のバックで知ったという感じですよね。
佐野:そうそう、っていうか岡林を聴きたいっていうことも当時は大きかったんですけど、いっぱいライヴ・アルバムが出ていて、ライヴが特に好きだったんですよ。
土橋:で、最初にガーンときたのは、例の70年の中津川のビクター盤だったんですか?
佐野:ええ。まあ伏線としては、大滝さんにも話しましたけど、つまり日本のロックね...GSはGSとして完成したものでしたけど...そうではない日本のロックを求めてたんですよ。で、ジャックスの木田(高介)さんが抜けて、つのだ(☆ひろ)さんが入ってきた時に、あの人のドラムってすごくロックっぽいドラムで、最後のアルバムの中に短い曲があって確か加藤さんがサイド・ギターで入ってたはずなんですけど。それが(サディスティック・)ミカ・バンドに繋がっていくんですけど、その1曲をラジオで聴いたんですよ。で、遂に日本のロックが(ここまで来たか)っていう感じがしたんですよ、すごくハードに聞こえて。今聴くとペラペラなんですけど。おっ、これは!っていう感じでしたね。多分ギターの音やリズムとかがカッコ良かったんだろうけど。それから歪んだギターはないものか、っていうことになっていって、クリームとかヒット・チャートに入っていて、あの音はどうやって出すんだろう?とか、ギターは弾かないのに興味があって。で、その音を出しているのがモップスで、「いいじゃないか」っていうのがヒットしてて。でほとんど同時なんですけど、はっぴいえんどのあの頃と。で、「いいじゃないか」は相当なものだと...英語ヴァージョンにしても日本語ヴァージョンにしても...ということになって。もちろん「プラチナ・ゴールデンショー」とか「シャボン玉ホリデー」でもやってたんですよね。そんな音に敏感になってて、それでPYGは「花、太陽、雨」は好きだったけど、やっぱり申し訳ないけど実力不足というか今聴いてもちょっと、サリーさんには悪いけど。でもサリーさんの曲とかいいですけどね。でもギターの歪んだ音っていうのが、僕にとっての大事なキーワードだったんですよね、あの頃。今にしてみれば、おかしな事ですけど。でもエンケンのアコギとか、ジョン・レノンやドノヴァンにも同じ様な事を感じてたから、実はそういう事じゃなかったはずなんだけど、でもロック・バンドとしてのギターの音っていうのは大事で。でそんなときに期待もしてなかったところからいきなり入ってきたのが、「12月の雨の日」だったんですね。でもエイプリル・フールも見てるんですよ、テレビで。そんなには出てる方じゃなかったですけど、エイプリル・フールも覚えてますよ。
土橋:「720」ですか?
佐野:「720」も覚えてるし。なんか出てたんですよ。
鷲尾:「720」って変なのが出てましたよね。
佐野:カップスは常連でね。
鷲尾:「720」見ちゃうと、学校遅れちゃうんだよ。
佐野:僕はギリギリセーフなんですよ(笑)。8時10分に出て、自転車とばして30分には学校に着いてたから。
小川:ギリギリだったんだ。
佐野:ものすごい勢いだったの覚えてるから。あれで鍛えられたんだな、足が。
小川:高校時代も早かったよね、自転車(笑)。
佐野:稲尾みたいな話(笑)。「720」で足腰を鍛えて、後のアングラに役立ったという(笑)。
土橋:でもエイプリル・フールってTVに出てないイメージあるんですけど、実は出てるんですよね。
佐野:いくつか見てるんですよ。少なくとも「720」覚えてるし。その後、加藤和彦さんと岡林さんの2人でやった「手紙」っていうのとかは、今だに覚えてる。そうしてはっぴいえんどですね。
土橋:こういった今の伏線があったんですね。それで例のビクター盤へと。
佐野:そう。URC盤は地方ではすぐに手に入らなかったから。
鷲尾:『ゆでめん』とか『風街ろまん』っていうのは、少し後になってからという感じですか?
佐野:『風街ろまん』はリアルタイムでしたけど、僕よりエカ(小川功)のが先でしたから。
小川:だって松江では売ってなかったんですよ。URCは。
佐野:隣の米子市まで買いに行って。
小川:『ゆでめん』はあのときは売ってたんだよね。
佐野:違う、フォーク・ジャンボリーで買ってきたのよ。
鷲尾:71年の時に?
佐野:あの時URC盤を5、6枚買って。それまでなかった。誰か持ってて、「MG」(註:松江の喫茶店名)行ったりするヤツはいたけど。
小川:そうだっけ?
佐野:そう。フォーク・ジャンボリーで買ったんだよ、『ゆでめん』は。
小川:そう? 違うでしょ。
土橋:フォーク・ジャンボリーっていうと、何年の?
佐野:71年。それまでは(はっぴいえんどのカヴァーは)やってないよ。エカはまだバンドに入ってない?
小川:そう。でも、はっぴいえんどのことは知ってたよ。
佐野:でも何で知ってたんだろう?「春よ来い」やったのは5月だよね。アズキ(小豆沢茂)と3人でやったのは。
小川:佐野が僕の家に『ゆでめん』持って来て、かけてくれたじゃない。それ僕が高校1年の時だよ。
佐野:その時既に...そうだね。
小川:そうだよ。で、間違えてB面からかけてくれたから、「あやかしの動物園」が1曲目だとずっと思ってた。
佐野:あれ、じゃあどうしたんだろ?通販で買ったのかな?
小川:そんなことない。一畑デパートの前のエコーで売ってたよ。
佐野:あ、あそこで売ってたんだ。
小川:で、『風街』になったら(売るの)止めちゃったの。
佐野:ああ、それまでは売ってたんだ。だから高田渡と五つの赤い風船のカップリングとか、あったんだ。
小川:URC売ってたんだけど何故か止めちゃって、で『風街』は米子まで買いに行かないといけなかったんだ。
佐野:じゃあビクター盤で気に入って、その後そこで買って聴きまくってたんだ。
小川:それでその後、次の年に中津川に一緒に行こうって言ってたのに(しかも佐野から誘っておきながら)1人で行っちゃったんだ(笑)。
佐野:マイペースだからねえ(笑)。
土橋:ということは、『ゆでめん』は地元で買われたということですね(笑)。
佐野:どうもそうみたいですね(笑)。勘違いしてた。
小川:じゃあ、中津川でも買ったの?
佐野:ということは、買ってないね(笑)。そうだ、岡林さんの「俺らいちぬけた」買ったんだ。だから、会場で売ってたのは覚えてる。そうか、その様ですね。
鷲尾:ということはビクター盤で触発されて、『ゆでめん』買って、その時は並行して洋楽も聴いてたんですよね。
佐野:そうそう。70年のビクター盤が出たときは、中学の友だちに聴かせてたんだ。荒木っていう...松江の荒木芸能社っていう元々安来節の...そこの息子が同じクラスで、荒木の部屋にステレオがあってそこが溜まり場になってて、そこで荒木に聴かせたんじゃないかな。それから飯塚だ、飯塚とかもそこに来て、ギターとか教わってたんだ。
小川:それは高1の時でしょ。
佐野:高1だけど、中学の時から入り浸ってて。
小川:そこで『ゆでめん』も聴いてたんだ。
佐野:そういうことだろうな。でも70年の時によく聴いてたのは、そのビクター盤と、『アイアン・バタフライ』と、『グッバイ・クリーム』と『レッド・ツェッペリン登場』とこの4枚。
小川:『サトリ』(註:フラワー・トラヴェリン・バンドのアルバム名)は?
佐野:『サトリ』もあったね(笑)。きっとあんな音だったら何でもよかったんだろうな。『サトリ』聴いてたね。その5枚。

inserted by FC2 system