「佐野史郎、はっぴいえんどと音楽を語る」 PART 2 of SPECIAL INTERVIEW

■はじめに(2010年7月2日:追記)
 この佐野史郎さんへのインタヴューは、『Groovin'』が創刊される約10ヶ月前に行ったもので、その当時スタートしたばかりのすみやのインターネット・ショップ「サイバーショップ」にてアップしたものです。そしてこのインタヴューが、その後『Groovin'』をスタートさせる1つの大きな切っ掛けとなりました。そういう意味では、まさに『Groovin'』の原点となった取材、と言っても過言ではありません。

SPECIAL INTERVIEW

「佐野史郎、はっぴいえんどと音楽を語る」

 記念すべき第1回目となるスペシャル・インタヴューは、テレビや舞台で大活躍の俳優、佐野史郎さんの登場です。佐野さんは自他共に認める音楽ファンであり、特に高校時代に聴いて影響を受けたという、はっぴいえんどや遠藤賢司の熱烈なファンであります。そこで今回は佐野さんに、はっぴいえんどを中心とした1960年代末から70年代初めの音楽シーンについて、たっぷりとご自身のエピソードも交えて語って頂きました。
 尚このインタヴューは、1998年12月20日に佐野さんのご自宅にお邪魔して行いました。さらに佐野さんの高校時代からの親友でありバンド仲間でもある、小川功さんにも参加して頂きました。
 どんな話が飛び出し、どんな方向へ行くのやら。それでは最後までお付き合い下さい。  

(初出:すみやサイバーショップ/1998年12月)

PART 2

sano2.jpg★バンド活動開始〜山本恭司(BOW WOW)とは同級生
佐野:で、1971年になって、エカと同じクラスになった時に小豆沢がビートルズが好きで、で歯医者のボンとかとビートルズの事で盛り上がって。で、アズキがギター弾けたから何かやろうっていうことになって、バンドやることになったんですよ。『レット・イット・ビー』はもう聴き込んでて、「アイヴ・ガッタ・フィーリング」とか「アイ・ミー・マイン」とかをギター2本でやってたんじゃないかな。でエカの家へいってそこに(BOW WOWの山本)恭司がいて、その5枚のアルバムを聴いてたんだけど。恭司はその後放送室で会ったんだけど、その1週間のうちだったよね。その何日かで恭司とツェッペリンとか...サンタナの「ブラック・マジック・ウーマン」とかやったよね。
小川:やった、やった。
佐野:良く知らなかったんだよね、恭ちゃんは、まだ。で、2人で歩いていって、じゃあ今度みたいなことになった。で翌日かなエカのところに行って、ギター持ってるっていう話になって、じゃあやろうって事になって。でフラワー・トラヴェリン・バンドとかガンガン聴いて、それに合わせてやったりしてて。
土橋:もうその頃、はっぴいえんどをカヴァーしようと思ったりしてました?
佐野:もうカヴァーしてました。
土橋:ギター1本でっていう感じで?
佐野:で、アズキはまだエレキ・ギターは持ってなかったから、恭司から譲ってもらって...。
小川:いやそれ、僕のギターだよ。
佐野:あれ、グヤ・トーンのギターは?入学したとき持ってたの?
小川:持ってない。それは恭司が買って、新しいを買うからっていうんで僕が買い受けたから。だからアズキはエレキ・ギター、ずっと持ってなかったよ。
佐野:今は持ってるけどね。
小川:で、最初はビートルズやってて、そのうち段々はっぴいえんどとかやろうっていう話になっていって。遠藤賢司とかも。
佐野:俺はほら、詩書いたりするの好きだから。それで、オリジナルを作ろうと思って。
小川:アズキはそれで承諾したの?
佐野:いや、自然発生的だったんだよ。エカが何かオルガンか何か弾いてて、思い出すもんだな〜(笑)、で俺が授業中に書いた詩を急にエカのガット・ギターで弾いて。それで最初はコピーしてたんだよ。恭司も「ブラック・マジック・ウーマン」とかやって、俺がサイドだけやってて。で例の「それは何だ?」っていう話になって「それはコードというものだ」ということで、恭司に僕がEというコードを教えたんですよ(笑)。
土橋:恭司さん、まだその時コード知らなかったんですか?
佐野:で、幾つかのコードを教えて、3コードぐらいでやるようになって。
小川:ギターって何かメロディを弾くものだと当時思っていたから。
佐野:で即興でDとEとAぐらいのコードに合わせて書いた曲か何かをずっと、練習してたんじゃないかな。でも俺は理論は知らなかったんだよ、フォーク出身だから。ロー・コードしか分からなかったし。Fとかもちゃんと押さえられなかったし。Bmとかをちゃんと押さえられるようになったのは、20歳ぐらいになってから(笑)。まあ、そんな事をやってたんですよ。だからこれをカヴァーしようって風になったのは、はっぴいえんどだけやろうってなったのは、はっぴいえんどーけんじになったのは、バンド・スタイルになって1年ぐらいしてから…1972年ぐらいからですかね。
小川:『ゆでめん』聴いたとき、どうだった?
佐野:エカにはB面から聴かしてしまったんですが。何だったんだろうな?
小川:ウチには「これがすごい!」っていう風な感じで、持って来てたよ。
佐野:そうなんだよ。すごいと思ってたんだよ。でも色々とすごいと思える事が多かったからな。はっぴいえんどの言葉とか、好きだったからね。
鷲尾:独特ですよね。
佐野:中学で既に詩とか、好きでしたよ。(萩原)朔太郎とかも好きだったよ。詩とかが好きでしたよ、確かに。それで詩が面白いと思ってたんでしょうね。松山猛さんとか日本の方のがすごく好きで、アングラ詩でしたけど、ああいうものまでヒット・チャートに上がってたから、詩の方でも耳がそういう志向になってきてて、そういう中で(はっぴいえんどの詩が)すごいと思っちゃったんでしょうね。ギターから入っていったけど、案外詩が...難しい漢字わざと使ったりしてたけど...好きで。
土橋:わざとルビをふるような。
佐野:そう。で、バッファロー(・スプリングフィールド)の『アゲイン』を真似た、あの下の(註:「下記の方々の多大なる御援助に感謝したい」という、『ゆでめん』の歌詞カードに印刷されていたクレジット)人物に...。
土橋:DEDICATIONですか。
佐野:そこに馴染みのある人や、好きな人が多かったし。逆に知らない人は誰だこれは?っていうことで、その辺はエカとよく話したり。
小川:あとジャケットもそうだったけど、「ガロ」みたいな...。
佐野:そうそう。林静一さんだったから。
小川:その頃もう「ガロ」も読んでたし。
佐野:それで、なるほどと思ったんだろうな。これ見ると(DEDICATIONのクレジットを見ながら)ちゃっかり唐(十郎)さんも入ってますよね。
小川:後から考えると、ほんと全部なるほどって感じの人ですよね。
鷲尾:そうそう、1つ1つ見てみるとね。
小川:音楽だけじゃなくてね。
佐野:片山(健)さんなんか、この時から入ってるんだね。全部縁の人じゃん、って感じだよね(笑)。
小川:ほとんど人生は変わってないんだよ、この頃から。
佐野:ただ会ってるか会ってないかの違いだけだな。
土橋:でバンドを始められて、同時期に『ゆでめん』から『風街』へと移行するわけですよね。
佐野:そう、もう『風街』の時はドップリで、最初はアズキとギター2本+エカのボンゴっていうT-REXスタイルで、一方ではああいうのも好きだったので。「12月の雨の日」と「春よ来い」はもうやってて...大滝さんにも聴かせたもんな...「春よ来い」「かくれんぼ」「朝」もやったよね。
小川:「はいからはくち」もうこの頃やったよね。
佐野:「はいからはくち」やってるね。ということはシングルだ。シングル聴いて...。
鷲尾:ヴァージョン違いの。
佐野:「はいからはくち」はキングの「12月の雨の日」のB面なのよ。あの辺のレコードは無くなっちゃったけど、今はCDで聴けるけどね。その辺はレパートリーとしてたから、あとそれにエンケン(遠藤賢司)の曲入れて、何かそれで1ステージをできるという状態だったわけですよ。
土橋:最初に『ゆでめん』聴かれて、それで『風街』へといきますよね。そこに行くと段々大滝さんの色が強かったのが細野さんの色へと移ってくるじゃないですか。その辺に対しての違和感とかは無かったんですか?
佐野:どうですかね。まあ僕がみんなをはっぴいえんどに引きずり込んだとすれば、『風街』の主導権はエカにあったような気がするんですが。
小川:たまたま最初に買っただけだよ。
佐野:でも、ギタリストとしてもアズキが黒いテレキャスとか持ってたり、あれずっと後かな?でも3年の時は黒いテレキャスを持ってたような。
小川:自分でギター持ってた?
佐野:レス・ポール弾いてた時もあったよね。
小川:持ってなかったような気もするけど。(註:後でご本人に確認したところ、黒のレスポールは山本恭司氏に借りようとしたところ、他の人を紹介され、コンサートの時にその人に借りたものだということでした。結局、小豆沢茂氏はギタリストでありながら、高校時代はエレキ・ギターを持っていませんでした。)
佐野:もっと後だった?まあ乾いた音が好きで、僕はもう『風街』も「はいからはくち」のアレンジも「抱きしめたい」も聴いてるはずなんですけど、その時はまだ分からないから。よく分からない曲が沢山あるなと思いながら、ライヴで聴いてたんですね。「朝」も最初は分からなかった。まあ「はいからはくち」はアレンジ変わっても詩は知ってたからついていけたけど。もう詩に目覚めちゃってるでしょ。で詩も随分書いてましたよ、もうものすごく。エカも書いてたよね。エカはラヴ・レターか(笑)。
鷲尾:バンドでライヴとかは?僕の高校の同期や先輩なんかだと、わりとブリティッシュ系のものをカヴァーして学園祭とかでやるでしょ。その頃はっぴいえんどとかやってるバンド、全然いなかったんですよ。まわりに。だから日本語で歌うのは、完全な日本のフォークのカヴァー。(吉田)拓郎とか出てきたから、みんなそっちへ行ってしまって。
佐野:拓郎、陽水はメジャーに行っちゃったから。僕の1つ上の代はエレック系とか行っちゃったりしてるんですよ。でも中には何人かいて、「夜汽車のブルース」を学園祭でやってる人とかいましたね。でも日本中そうだと思っていたことが実は僕の周りだけだったっていうことが、すでにその頃から始まっていて、今でもそうなんだけど。
小川:鳥取にもはっぴいえんどのコピー・バンドがいるっていう話を聞いたことがあったから、日本中にコピー・バンドがいるんだなって思ってました。
鷲尾:日本語のロックといわれるものを聴いてるときは、まだ亜流でしたよ。僕は横浜の高校だったんですけど、はっぴいえんどってクラスで聴いてるのは2人ぐらい。あとはどっちかというと、内田裕也一派。英語で歌う方。あとは拓郎だとか、泉谷とか。
佐野:まあバランスとしてはそうですけど。ただ、僕らは下手だったけどものすごく好きだったから、周りへの影響力はかなりあって。結構松江だけで、はっぴいえんどのレコードはハケてたんじゃないかな(笑)。
土橋:消化率、高かったかも知れないですね。
鷲尾:『風街ろまん』が、当時1万枚売れたそうなんですね。
佐野:そんなに売れたんですか?すごいですね。初回プレスじゃないですよね。
鷲尾:数年のトータルだと思うんですけど。
佐野:初回は2,000か3,000枚ぐらいでしょ。20枚ぐらいはあったんじゃないの?周りには。
鷲尾:それは相当なシェアですよ。
小川:そういう種類の人ばかり集まって来たからね。
佐野:あの時ざっと数えただけでもそれぐらいはあったよね。あと関係ないけどイッツ・ア・ビューティフル・デイのファースト(註:1968年発表の『IT'S A BEAUTIFUL DAY』のこと)を持ってる人の数は(笑)、松江はちょっと多いと。
小川:あと「MG」っていう喫茶店があって、そこにみんな同じ様な志向の人が集まったから広まっていったと。(註:1999年10月9日に松江で、「MG」30周年記念イベントが行われ、山本恭司氏が高校生の時に組んでいたバンド"マッドロッカー"や、佐野さん、小川さんのバンド"WIND CITY"も再結成されます。エンケンも出るのでは?)
佐野:そこでの情報交換が多くて。で島根大学の学生もそうだけど他の音楽好きな奴らが集まってて、そこでいいとなるとけっこうみんな買いに行くと。そこへ行くと必ずはっぴいえんどがかかってたし、やっぱり「MG」は大きかったよね。そこですよね。70年から73年ぐらいまで、丁度僕や恭司が卒業するくらいの時期までのバンド熱ってすごくて、いっぱいいたもんね。確かにはっぴいえんどやってたのは俺達だけかもしれないけど。
小川:でも、フォーク連合とかあったからね。みんなライヴはやってたし。で、僕らも出たし、佐野は1人で生ギター1本持って、自分で作詞・作曲 したものを歌ったりして。


★ギター抱えて、中津川フォーク・ジャンボリーへ
土橋:ギター1本持って中津川行かれたのは?
佐野:その前。
土橋:その時はいかがでした?印象は。
佐野:面白かったですよ。最初は(主催者の)家まで行っちゃうし。どういう人間だったんだろうな(笑)。やりたいことは我慢できないんでしょうね。それで、この間松本(隆)さんのホーム・ページ見てたら思い出したんですが、中津川で乱闘があって、僕もその時最前列にいたんですけど、その直前にはっぴいえんどがサブ・ステージの第1ステージでやってて、第2ステージで暴動になって雪崩れ込んで、エレックの吉田拓郎、山本コータロー、小室等ってことになって...でも楽しかったですよ。フォーク・ジャンボリーらしかったんですよ、サブ・ステージはいいなって思ってて。確かにメジャー・シーンの人が多くて何かレコード会社の人が仕切ってたから、文句が出てきたのは当然なんですけど、でもムッシュにしてもはっぴいえんどにしてもそういうことには関せず、エンケンもそうだけど、とにかくやるだけっていう姿勢の方が好きで。でもさすがに誰かが火をつけたときには「違うんじゃないの?」って結構熱くなりましたね。で、その時に黒テントが建ってて、その中ではっぴいえんどが演奏してたって。僕は結局行けなかったんだけど、そうらしいという話を聞いて。でも松本さんの見たら、どうもそれはコピー・バンドだったらしいという(笑)。本物じゃなかったと(笑)。それも最近明かされたことで。
土橋:確か松本さんのドラム・セット、ステージが占拠されたときにどこかに吹っ飛ばされてたって話、どこかで読んだことありますけど。
佐野:で、ジャンル分けするのが今だに嫌だっていうのがあって、その苦しみは今でも続いてるんですけどね。
土橋:1970年の中津川ではオフ・ステージがあって、終わってからみんなで色々演奏したりしたらしいんですよ。その中に大滝さんと金延幸子さんが「時にまかせて」歌ってるテープがあるらしいんですけど。そうそう、1970年の中津川といえば遠藤賢司の「雨あがりのビル街」をはっぴいえんどがやってるのがCD化されましたね。
佐野:これ嬉しかった。話には聴いてたんですけどね。エンケンは色々よく知ってるんですよ。その辺の話。あとフォーク・ジャンボリーの生写真持ってて、それ写真部で現像してもらったんだけど、松本さんと細野さんの写真がなくなっちゃって...アズキがなくしたんだよ。大滝さんと鈴木茂氏のだけあるんだけど。
土橋:最近インターネット見てると、当時の生写真持っていらっしゃる方がいて。この前も岐阜かどこかの方で、当時中津川を見に行けなくて、愛知勤労会館かどこかではっぴいえんどを見た方がいて、その人が撮ったはっぴいえんどの写真をホーム・ページで公開していましたけど。
小川:8mmのフィルムがあるって話聞いたことがあるんですけど、あれは?
土橋:所在不明ですね。
小川:あ、そうですか。
土橋:マザー牧場で遊んでいるのが映っているとかいうモノですよね。今動くはっぴいえんどを見られるのって、中津川の岡林さんのバックやってる例のフィルムぐらいですよね。あと12ch(テレビ東京)の岡林さんの番組のテープが残ってるらしいですね。でも今テレ東にそのフィルムについて分かる人がいないらしくて。
佐野:それバックはっぴいえんどがやってるんですか?
土橋:そうですね。岡林さんがフォーク・ギターからエレキに持ち替えて、はっぴいえんどをバックにつけてやっていくところまでの変遷を追った、ドキュメンタリー番組みたいですね。
鷲尾:それっていつの放映だったんだっけ。
小川:何月何日オン・エアーって言っても、出てこないんですかね。
土橋:1970年5月29日オン・エアーですね。
小川:ちゃんとそこまで分かっててもだめなんだ。
佐野:テレビマン・ユニオンがね、1971年の。随分クルーが入っててカメラ回してましたけど。
土橋:あれは残ってるんですよね。
佐野:でも僕も色々テレビマン・ユニオンの仕事した時に、探してもらったんですけど、分からなかったし。
土橋:あとNHKとかも当時はあったらしいんですけど、テープを使い廻ししてたんで消してるんです。だからないらしいんですよ。あとCX(フジテレビ)でも「ナイトショー」って番組に71年1月に出てますし、テレ朝でもNETの頃の1972年7月29日に出て「夏なんです」やってますね。でもこれも残ってないという。テレビだけでも3回は出てるんですよね。
小川:ことごとく残ってないですね。当時はビデオ持っている人なんてまずいないでしょうし。大橋巨泉さんぐらいでしょうね(笑)。
土橋:だからちゃんとした形で見られるのは、やはりフォーク・ジャンボリーの70年の、それぐらいですよね。
佐野:でも「だからここに来た」(註:1970年8月の第2回中津川フォーク・ジャンボリーの模様を収録した記録映画)には、ちょっとしか映ってないよね。隅の方でね。
土橋:隅の方で松本さんと細野さんがつまらなそうに下向いて演奏してて。


★バンド活動秘話
小川:ところでお宝音源、色々持ってるよね。
佐野:うちは、ありますよ。
土橋:どの辺があるかな?
佐野:自慢合戦ですか?その話を始めると(笑)...はっぴいえんどで一番は、バッファローのカヴァーをしてる「Mr. SOUL」。
鷲尾:それはすごいですね。
土橋:それはライヴですか?
佐野:いや、スタジオの練習のテイクだと思う。でも完全じゃないですよ。1コーラスぐらいまでですけど。
鷲尾:今日1つすごいのを持ってきたんですよ。
土橋:『ゆでめん』の未発表曲。
鷲尾:「風を集めて」なんだけど、全然違うという。
佐野:ああ、話には聴いたことありますけど。
土橋:結局ミックスの段階まではマスターに入ってたんですけど、細野さんが気に入らなくて削除されたらしい、幻の曲で。
佐野:未発表曲で僕が持ってるのは、「風のくわるてつと」にも詩だけ載ってる「ちぎれ雲」っていうのが実ははっぴいえんどとしてもあって、サードの頃でしょうけど、多分ボツ曲ですね。鈴木茂の曲でライヴが残ってるんですよ。
土橋:すでにライヴではやってたんですか?
佐野:その様ですね。
土橋:3枚目(註:サード・アルバム『HAPPY END』)の頃は、聴いたときどんな感じでした?
佐野:もうすでに「風のくわるてつと」ていう詩集とかが出てましたから、どちらかって言うと詩の方が...文学系へと。
小川:あれも出るって聞いたら、すぐ本屋で買ってたもんね。冬だったかな。
佐野:で、エカもその辺からちょっと編集の血が...。急に現代詩の話が、その辺から増えたよね。「ユリイカ」とか「現代詩手帖」もあるし。ドラムのよっちゃん以外はみんな好きで。アズキは写真とかも好きだったけど。で、「若いこだま」での松本さんの発言聞いて、やっぱりなって思って、でいろんな詩を研究したっていうか、読みあさったよね。
小川:はっぴいえんどみたいな大卒の人というか、中流以上の頭も良くて、ある程度お金持ちの人たちがちゃんとロックを日本語でやるっていうのは、珍しいような気がするんですけど。ロックって不良がやるものでみたいな考え方の中では、何か違ったような気がするんですけど。それが例えばティン・パン・アレーになっても松任谷さんとか、そういう人ばかり集まるじゃないですか。ちょっとハイソな感じするし。
土橋:その前には逆に、そういうのはあまりなかったですよね。
佐野:何かアレンジも難しいし、この頃になると演奏もすごく巧いから、コピーできなくて。
小川:ジェイムス・テイラーとか難しいギターの人の影響が入ってるし。
佐野:でも「抱きしめたい」と「夏なんです」やってたな。「花いちもんめ」はやりたかったけど...。あと「颱風」やってたじゃない。
小川:「颱風」は上手だったじゃない。
佐野:「颱風」は上手(笑)。だから、そんなに研究するほど俺達はテクニック指向ではなかったから。
小川:でも譜面とか雑誌とかに出てたり、楽譜とかも出版されてたし。
佐野:なんかハイ・コード多いと、出来なかったんじゃないの。でも『風街』出て、同時進行でそれ中心の...つまり同じ様な詩と音の感じを目指してて、強気でしたよね。恭司達はもうバリバリでどんどん巧くなっていってて。ニール・ヤングも好きだったから、俺はどちらかというと、ジェイムス・テイラーというよりはエンケンのギターの方が好きで。1人でやったりもしてたのは、そういう事だったんじゃないかな。アズキのギターも、ニール・ヤングのように粘っこいし。まあはっぴいえんどもそんな感じの音をやってましたから当然と言えば当然なんだけど。でアズキとはニール・ヤングをカヴァーしようとか言ってたんですけど、結局やらなかったな。まあ遊びではやってたけど。
土橋:じゃあその当時は、はっぴいえんどとオリジナルとっていうレパートリーだったんですか?
佐野:あとエンケンのカヴァーで「ほんとだよ」とか「ミルクティー」とか、あと俺は「カレーライス」が十八番だったから。
小川:自分1人でやってたのは?
佐野:『満足できるかな』っていうエンケンのアルバムと『風街』がほぼ同時期で、1971年ですかね。『満足できるかな』と『風街』は当時「MG」でも、ひっきりなしにかかっていて。
鷲尾:『満足できるかな』は当時結構売れたような気がするんですよね。
佐野:売れたでしょうね。
鷲尾:少なくとも僕の周りでは、『風街』よりは持ってる人多かったですね。
佐野:やはりキャリアというか知名度では、遠藤賢司は1967年デビューだから相当あって。
鷲尾:『niyago』は俺しか持ってなかったけど、『満足できるかな』は結構持ってたよ。
佐野:その曲とかは、やってましたね。確か。
土橋:『niyago』って、はっぴいえんどのスタジオ録音としては、一番古いんですよね。
佐野:そうそう。そうですね。
鷲尾:ということは佐野さんがやられてたバンドは、周りはどちらかというとショー・アップした感じで「お前らステッペン・ウルフか」みたいな時代に、どちらかというと内省的な方向へといったバンドですかね。
佐野:内省的というより、その割には派手好きでね(笑)。なんか変わった格好してたよね、エカは(笑)。
小川:すみません(笑)。気持ちはそうなんだけどね。
佐野:エカは派手好きだったよね。サンバイザーしてたよね。でも当時ブルース・バンドちょっと手伝ったりしてたよね。僕らは普通のTシャツで。
土橋:お客さんの反応とかどうでした?はっぴいえんどの曲やって。
小川:全然わからないね。どうだったのかな。
佐野:反応はあまり興味が無かった(笑)。でも一番長く1時間やったとき、何だっけ「バングラデシュ救済コンサート」ってあったじゃない。
土橋:あの有名な。
佐野:違う、地元で(笑)。あのオープニング・アクトで始めようっていうんで、僕ら「抱きしめたい」やら...。
小川:結構やったんだよね。
佐野:あれは良かったっていうことを誰か言ってたけど、とにかく音源が残ってないから。オープン・リール録ってたんだけどね、あれどこかへ行っちゃったんだよね。
小川:聴きたくないけど(笑)。
佐野:「かくれんぼ」なんか入魂でしたよ。汗だくだったもんね。
小川:でも最初に合わせた時は、弾いてる方は感動しましたけどね。
佐野:そうね。
小川:びっくりした。
佐野:良かったんじゃないかな。
小川:でもいっこうに巧くならなかった。
佐野:元々の問題があったんだろう。
小川:はっぴいえんどって本当は巧いんだけど、その巧さっていう感じを表に出さないですよね。だから何かこっちも安心しちゃったっていうところもあるんでしょうね。
土橋:だからはっぴいえんどってテクニックに走らない部分が大きいかも知れないですよね。本当はすごいテクしてるんだけどそれをひけらかさないと。その前のエイプリル・フールってどちらかというと、テクニックがあってそれで人を踊らせてっていう方法ですけど。はっぴいえんどになってから、その辺が変わりますよね。細野さんなんか特にそうだと思いますけどね。
佐野:そうそうそうそう。わざとですかね。でもよく聴きゃすごいことしてるんだけど。
土橋:あと多分、大滝さんがミュージシャンというかプレーヤー志向の強くない方ですから、多分その辺もあったんじゃないですかね。
佐野:その割にはうまいですけどね。
土橋:最初にカヴァーしたのが「ブルー・バード」でしたっけ。大滝さんって最初ドラマーで、布谷(文夫)さんと一緒にバンドやってたじゃないですか。それから最初にギターを持って細野さんに聴かせて曲が、バッファローの「ブルー・バード」の間奏だったらしいですね。
佐野:ふふふ。
鷲尾:やっぱり東京の、そういう情報が入るところでやってる人たちは、全然違うんだよね。その逆にバッファローなんか、はっぴいえんどがやってたから知ったっていう人が多いし。CSNとかニール・ヤングとかもはっぴいえんど聴いてたから、聴いてみようという気になったし。
土橋:(モビー・グレープの『WOW』を手に)当時、こんなアルバムを持ってた人は、ほとんどいなかったんでしょうね。
小川:田舎なんかには絶対なかった。東京に出てきてから色々買いに行ったもの。
鷲尾:バッファローも国内盤とかなかったですよ。
佐野:『アゲイン』はありましたよ。1971年には。
鷲尾:そうだ『ラスト・タイム・アラウンド』とファーストを買いたかったんだけど、『アゲイン』しか無かったんだ。
佐野:『アゲイン』は流石に名盤なので、あの頃出てて。
鷲尾:そう「ニューミュージック・マガジン」のロック名盤100選か何かに選ばれてた。
佐野:さすがにあれはよく聴きましたよ。でもその頃のはニール・ヤングとかの流れとかではなくて、『フォー・ウェイ・ストリート』の直前ですよ。
鷲尾:1971年とかですね。『フォー・ウェイ・ストリート』」が1971年の6月か7月か8月だったから。
佐野:多分5月ですよ。でもその頃いろんなバンドが解散して、ニュー・バンドがいっぱいできたでしょう。デレク&ドミノスとか、カクタスとか、何かプログレだか何だか分からないようなものと同じ様な新しい感覚で、バッファローを聴いたんですよ。
鷲尾:CSN&Yが結構売れて、「いちご白書」とかあって、『フォー・ウェイ・ストリート』が出て、福田一郎さんが「ニューミュージック・マガジン」にバッファローの事を書いた連載があって、それを見てその辺を聴いたような気がするな。でもファーストやサードは出てなかったんだよな。モビー・グレープなんてジャケットは知ってたけど、見たこと無かった。本物なんてレコード屋さんに置いてなかったよ。横浜でも伊勢佐木町の一番大きなレコード屋さんに行けばそこそこあったんですけど、町のレコード屋さんには全然なかった。
佐野:(輸入盤では)2枚組の廉価盤になってて、『WOW』と『グレープ・ジャム』とカップリングか何かの。
土橋:細野さんとかは、もう当時タイムリーで買ってたんですよね。だからすごく早い。
佐野:青学とか明治通り近辺のロック喫茶っていうのは、もう当時やってたんだろうか?
土橋:ぼちぼち出来始める、ちょっと前ぐらいじゃないですかね。
佐野:何かあの辺の店に、1974年ぐらいに連れていってもらったんですけど。でもかかってるものとか、ちょっと違うんですよね。あと「BYG」(註:渋谷の百軒店にある、ロック喫茶兼ライヴハウス。当時ははっぴいえんどやはちみつぱいなど、風都市系アーティストがよく出演していた。現在もロック喫茶&バーとして営業中)とかあったから、その辺での情報交換があったんじゃないですかね。
土橋:あとあの辺のレコード屋だと、ヤマハですよね、道玄坂の。あそこは一番輸入盤早かったみたいですから。だいたい「BYG」に行ってる連中がヤマハに買いに行くパターンで。当時は細野さんや鈴木慶一氏がいたとかっていう話を。でもほんとに一部のレコード屋さんにしかなかったんですよね。
小川:ホントみんな買う量が1枚とか2枚とかじゃなくて。半端じゃないでしょ。鈴木茂さんがバッグいっぱいもってたとかいう話は、よく聞いたけど。
土橋:だからムーンライダーズ系の人たちとか、南佳孝さんとか、あの辺で会ったっていう話聞きますよ。
鷲尾:俺、公園通り歩いてて加藤和彦とすれ違った事あるけど。髪の毛紫色だったな。
土橋:それ、いつ頃?
鷲尾:ミカ・バンドの頃ですね。公園通りだからパルコが出来た頃。
佐野:加藤和彦さんは見たことないや、今だに。まあステージではあるけど。
土橋:で気が付けばはっぴいえんどは3枚目で、いよいよロスに行ってレコーディングで、ヴァン・ダイク(・パークス)だリトル・フィートだという頃ですよね。
佐野:1972年ですよね。
鷲尾:リトル・フィートなんて、あれで初めて知ったんですよね。
佐野:僕もそうですよ。
鷲尾:ヴァン・ダイクだってもちろん(ニューミュージック・)マガジンに『ソング・サイクル』が載ってて聴いたけど、全然分からなくて。
佐野:そうでしょうね。
小川:アッコちゃん(矢野顕子)のファーストは、その後でしたっけ?
土橋:後ですね。
佐野:まあ大滝さんの番組でも言いましたけど、サード・アルバムは曲が少ない。まずそれで不評で。まあ「さよならアメリカ、さよならニッポン」のポリシーはしっかりあるとはいえ、ああいうスタイルの過激さに最初は戸惑いましたよ。
土橋:それまで大滝さんが中心だったところが、細野さんと鈴木茂氏のところに移っていってますよね。まあその前にソロ・アルバム出しちゃったっていう事はありますけどね。

inserted by FC2 system