フリッパーズ・ギターと東京ポップ・シーン PART 2 of SPECIAL INTERVIEW

特集:フリッパーズ・ギターと東京ポップ・シーン

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 2006年8月25日にフリッパーズ・ギターの1stアルバム『THREE CHEERS FOR OUR SIDE〜海へ行くつもりじゃなかった』と、2ndアルバム『CAMERA TALK』がリイシューされる。それまで市場に流通していた95年に再発されたCDと比べると、最新のデジタル・リマスターにより明らかに音質もアップし、しかも今回は紙ジャケット仕様という魅力あるパッケージでの登場だ。そしてこのリイシューに合わせて、雑誌や番組などでもフリッパーズ・ギターをはじめ、後に「渋谷系」と呼ばれた音楽やアーティスト達にスポットを当てた特集も盛んに組まれるようになった。そこで今回このすみやサイバーショップでも、彼らの音楽と当時の背景…いわば東京ポップ・シーンを中心に、振り返ってみたいと思う。

文・取材:土橋一夫(『Groovin'』編集長)
取材写真:三須百合子
(初出:すみやMediamax:2008年1月)

【CONTENTS】
東京のレコード・ショップとミュージシャンとの関係
フリッパーズ・ギターの登場と活躍
当時のレコード店と「渋谷系」
すみやバイヤーズ・セレクション

■フリッパーズ・ギターの登場と活躍

 バンド・ブームに沸いていた80年代、その末期になって1つのグループが登場する。名前はロリポップ・ソニック。井上由紀子、小山田圭吾を中心に、小沢健二、荒川康伸、吉田秀作が加わった5人組で、ある繋がりからポリスター・レコードに彼らのライヴ・テープが持ち込まれる。この時のことを、彼らのプロデューサーであった牧村憲一さんはこう語る。

makimura_san.jpg 「サロン・ミュージックのマネージメントをしていた知り合いがいて、彼がロリポップ・ソニックというグループのカセットを持ってきたんです。このライヴ・テープは結構ミスが多くて、渡す方もこれ聴いて多分良いとは思わないでしょうけどみたいな感じだったんですけど、僕は聴いていてすぐ音に反応しました。このバックグラウンドにあるものには、共通する何かの裏付けがあるはずだと思ったんです。それでテープを聴いてすぐに、是非デモ・テープを録りたい、ということを伝えたんです。すると彼らはすぐに呼応してくれて。ただしその時点では、英語詞が果たして日本の市場で成立するのかということと、もう1つ気になったのは、全ての歌をハーフ・ヴォイスで歌っていたことでした。A&Mとか、ハーパース・ビザールとか、当時のネオアコの何かが下敷きになっているとは想像出来たんですけど、で、提案してハーフ・ヴォイスで歌うものと、実声で歌うものの両方でトライアルしたい、ということから始めました」

 ということで、サロン・ミュージックのプロデュースのもと、早速ロリポップ・ソニックはデモ・テープのレコーディングを経て、フリッパーズ・ギターと改名し、1989年8月25日に1stアルバム『THREE CHEERS FOR OUR SIDE〜海へ行くつもりじゃなかった』をリリース。当時の彼らの優れた洋楽センスは、エル・レーベルなどに代表される、イギリスのインディーズ・シーンと結びついたところ…いわゆるネオアコやギター・ポップ…から得たものと、そのルーツにある1960年代以降の英米のサウンドに大きな影響を受けていた。その辺りについて、牧村さんはこう振り返る。

 「(彼らは洋楽的なものを)あまりにもよく知っているんで、逆に疑われた部分もありましたよ。何でこの世代がこんな古いものを知ってるのか?とか、後から付けた都合の良い演出じゃないのか?とか、聴いてないのに聴いたふりしてるんじゃないの?とか、そういった誤解が生じるくらいよく知ってましたよ。例えばバート・バカラック、僕はリアル・タイムで聴いている世代です。でもフリッパーズは、アズテック・カメラ経由でバート・バカラックに辿り着いているということが、僕にはすごく面白くて新鮮でね、なるほどなと。繋ぐっていくことは一直線に繋ぐだけじゃなくて、色々な繋ぎ方があると。それまでに僕がやってきたアーティストでは僕が持っていた知識をダイレクトに役に立てたのに対し、フリッパーズでは彼らが辿り着く系譜をそのままプロデュースの手法の中に入れていった。デビューして1年少々、まだそれほど売れていないフリッパーズ・ギターが『fab gear』というコンピを作るなんていうことは普通はないことでして、会社からも編成に待ったがかかりました。「何でまだ結果を出してないうちに、しかも企画物にお金を使って」って。でも僕は「1年経ったら分かりますから」って言ったんです。日本のポップ、ロックは最初は洋楽の模倣から始めるけれど、きちっと洋楽を聴くこと、知ることによって模倣ではなくなってくる。模倣ではなくなった時に、果たしてオリジナルを乗り越えられるかどうかまでは分からないけれど、並立することは出来るだろう。で『fab gear』で何が重要だったのかと言えば、その並立を先取りしたんです。後にそれは例えばコーネリアス自身によって、もっと明確に実証されることになります。つまりワールドと相手も同時代に受け入れ始めた訳ですから」

 このように、当時のイギリスなどの音楽を経由して1960年代以降のポップスやロック、パンク、ソフト・ロックなどまで深く理解していた彼らが完成させた1stアルバム『THREE CHEERS FOR OUR SIDE〜海へ行くつもりじゃなかった』は、全て英語詞による、当時の日本のシーンにおいては極めて希有な作品となった。そして彼らのお披露目のコンサートを企画した頃、1つの事件が起きてしまう。ここでまた牧村さんにご登場願おう。

「アルバムがやっと完成して、1989年8月25日にデビューだというところまで漕ぎ着けて、そのためのお披露目ライヴを渋谷のクアトロでやろうじゃないか、というところまで来たんですけど、直前の10日に小山田君が交通事故で大怪我をして、数ヶ月リタイアしてしまうんですね。怪我の状態はかなりひどくて、潰れた車の状態なんかを聞くと、生きているのが不思議なくらいでしたね。そこで5人のフリッパーズ・ギターとしての活動も休止せざるを得なくなったんです。当然ライヴもなくなって。余談ですが、小山田君の隣のベッドにいたのがブライアン・バートンルイスで、後に彼は大きく関与してくることになりますが、事故がなければ出会わなかった2人がここで偶然繋がるんです。入院中に小山田君と小沢健二君は、2人のバンドになるという決意をするんですね。そこは深く突っ込んで聞いたことはないんですが、自分たちの求めるクオリティの音楽をやるためには、スティーリー・ダンじゃないですけど、もしかしたら技量のある人たちを起用した方がいいんじゃないだろうかと思ったのではないでしょうか。小山田君は意欲的にリハビリに励み、復帰してくれてすぐに、シングル制作とビデオ撮影に参加するんです。それが最初のビデオ『THE LOST PICTURES/それゆけフリッパーズ!!名画危機一髪』で、その中でまだ松葉杖のとれない、痛々しい姿で走ってますからね。このビデオというのは、実はツキがあったんでしょうね。WINKが大ヒットして、フリッパtalk.jpgーズにも使えるお金がまわってきたんです(笑)。それで当時としては、破格のお金を使っていいということになった。普通なら宣伝費としてテレビ・スポットやラジオ・スポットを打つということになるはずなんですけど、僕らはそのお金でビデオを作るんです。それはMTVという新しい媒体に参加したかったからですね。ビデオは2泊3日の強行スケジュールで作りました。信藤さん、三浦さん、山口さんらを起用した映像は素晴らしいと言われ、萩原健太さんの応援もあって、MTVでも非常に人気を博し、MTVを放送したTBSの中でも評判になる、それで今度はそれを聞きつけたTBSのドラマ班からドラマ(『予備校ブギ』)の主題歌に抜擢しようか、という話が出てくるんです」

 このようにアクシデントを乗り越え、2人組となったフリッパーズ・ギターは、次なる一歩を踏み出すことに。そしてその中で生まれたアイディアが、エル・レーベルやアズテック・カメラの連中と一緒にレコーディングをする、というものだった。すぐに現地のミュージシャンにオファーし、アズテック・カメラのバック・メンバーやエル・レーベルのミュージシャンと共にロンドンでレコーディングが進められ、完成したのが2ndアルバム『CAMERA TALK』(1990年6月6日リリース)であった。この時期の彼らについて、牧村さんはこう語る。

 「2人になったフリッパーズでは、洋楽のレベルでのワールド同時・同格ということが目的の上でも重要だったんで、そこで英国でやらないかと提案しました。フリッパーズはすぐにエル・レーベルやアズテック・カメラ周りのミュージシャンと一緒にしたいと言いました。エルは非常に小さい趣味的なレーベルですから主要なミュージシャンをすぐ捕まえることが出来ました。で、アズテックはと言うと、ロディ・フレイムと一緒にやる訳じゃなかったのですけど、ツアー・バックのバンドが丸ごとOKだったんです。それを受けてすぐロンドンに飛んで、ポール・マッカートニーが使っていたオックスフォードの方の、移転寸然のエアー・スタジオにギリギリ間に合ったんですね。そこでレコーディングをしました。スタジオはこちらで選びました。何から何までインディーズではいけないと思ったからです。このレコーディングが「恋とマシンガン」を含め2ndアルバム『CAMERA TALK』になります。『CAMERA TALK』というのは1990年と言う時点での、ネオアコ・シーンの日英の共同制作盤みたいなもので、これがネオアコやギター・ポップという、どちらかと言えばまだマイナーだった音楽ジャンルを結果としては表へ押し出したし、フリッパーズはオレンジ・ジュースの再発を促したりして、非常に影響力を発揮し始めました。それがこの時期ですね。フリッパーズのフリッパーズらしい黄金期は恐らくこの2ndアルバム『CAMERA TALK』から3rdアルバム『ヘッド博士の世界塔』までの間にあったんだと思うんですけど、ファンやマスコミの皆さんの中には最後に残したアルバムのクオリティーの凄まじさから、サード・アルバムが代表作品という方もいます。英語詞でデビューして、2作目の『CAMERA TALK』ですぐに日本語詞に変わり、その日本語詞が非常にクオリティの高いものであったということなんですが、この日本語詞への変化はレコード会社によくありがちな、「売るために」変える、ということではなかったのです。1stと2ndでは違うアプローチでありながら、クオリティを失うどころかさらに、日本の洋楽市場へも影響を与えるものすごく意味のあるアルバムになったということです。これで小沢君と小山田君が持っていた音楽知識と資質の埋蔵量を遺憾なく発揮する、ということになったんです」

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